藤原宗隆
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嘉応2年(1170年)従五位下に叙爵。承安4年(1174年)甲斐守に任ぜられる。秩満すると、治承2年(1178年)備後守に任ぜられ、治承3年(1179年)治承三年の政変にて甲斐守・藤原為明が解官されると、甲斐守に再任した。治承5年(1181年)父の譲りで従五位上に叙される。
寿永2年(1183年)淡路守に任ぜられる。寿永3年(1184年)正五位下・勘解由次官に叙任され、五位蔵人に補任。文治5年(1189年)右少弁を務め、左衛門権佐を兼ねる。検非違使別当を経て、文治6年(1190年)左少弁に転じた。建久5年(1194年)従四位下・権右中弁。
建久6年(1195年)従四位上に叙されるが、不仕により除籍される。その後、右中弁、左中弁に転任し、装束使・氏院別当・修理左宮城使を歴任した。
建久9年(1198年)正四位下・蔵人頭に叙任される。同年中に参議に任ぜられて公卿に列し、左大弁に転じる。建久10年(1199年)に入り、勘解由長官・備後権守を兼帯。正治2年(1200年)従三位に叙され、建仁元年(1201年)権中納言に進む。建仁2年(1202年)正三位に至る。
元久2年(1205年)3月頃から病になり、3月27日に出家。翌日40歳で薨去した[1]。死後の嘉禄2年(1226年)の火災で宗隆の和漢文庫が焼亡している[2]。