平業房
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法住寺殿行われた今様の会に出席するなど[3]、今様を通じて後白河上皇の寵愛を受けるようになったとみられる[4]。
仁安2年(1167年)には衛門尉として建春門院家の侍の中にその名が見え[5]、同年2月には検非違使宣旨を蒙る。仁安4年(1169年)熊野御幸に供奉した[6]
安元元年(1175年)相模守の官職にあったが、自ら造営した浄土寺に後白河法皇と建春門院の御幸を仰いだ[7]。治承元年(1177年)正月に木工頭に任ぜられるが、同年6月に発生した鹿ヶ谷の政変により解官される。この際に多くの院近臣が処分を受けたが、業房だけは後白河法皇の懇願によって平清盛に釈放され、世間に驚きをもって受け取られた[8]
治承3年(1179年)正月に正五位下・左衛門佐に叙任される。しかし、同年11月の治承三年の政変により再び解官され、伊豆国への配流に処されるが、途中で逃亡する[3]。同年12月に清水寺の僧房にて兵衛尉・藤原知綱に捕らえられ[9]、権大納言・平宗盛のもとで拷問を受けた末に殺害された[10]。
業房の死後、妻の栄子は後白河法皇に出仕してその寵愛を受けて覲子内親王(宣陽門院)を生んだことで、異父兄である業成の息子も登用されることになった。