藤原成光
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若くして大学寮に入り、保延3年(1137年)6月に父・敦光が成光の学問料の給付を願い出ている。当時の成光は正六位上の位階にあった。その後、文章得業生となり、康治元年(1142年)6月に蔵人に補任された[1]。久寿2年(1155年)10月に式部権少輔に任官する[2]。久寿3年(1156年)正月、正五位下に叙せられ[3]、文章博士、式部大輔、豊前守を歴任。文章博士在任時には仁安の元号を勘申して採用された。
嘉応2年(1170年)6月、太政大臣・藤原忠雅が上表する際には、上表文を起草している[4]。治承2年(1178年)閏6月、九条兼実と文談する。兼実はこの時に成光を「文道の故実を知り詩心を得たる人」と評した[5]。治承4年(1180年)7月18日に70歳で卒去[6]。