藤原有佐
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後三条天皇と掌侍であった平親子(侍従内侍)の間に産まれるが、母親の身分が低かったため藤原顕綱の子として育てられる。後三条天皇が扇に有佐の名を書いて、侍従内侍に与えたという[1]。顕綱の母の藤原明子(弁乳母)が後三条天皇の母である禎子内親王の乳母だった関係で、明子の息子である顕綱の養子となったともされる[2]
兵衛佐・中務少輔・甲斐守を経て、白河院政期初頭の寛治元年(1087年)従四位下に叙せられる。その後、嘉保元年(1095年)土佐守、康和4年(1102年)ごろ紀伊守、天仁元年(1108年)近江守と白河院政期前半に受領を歴任する一方、嘉承2年(1107年)令子内親王が皇后に立てられると、有佐は皇后宮亮を兼ねた。位階は天仁元年(1108年)正四位下に至る。