落胤

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落胤(らくいん)とは、身分が高い父親が正妻以外の女性に産ませた子のこと[1]庶子、私生児、落とし胤(だね)、落とし子とも。

高位にある人物の子でも、正妻や承認された側室から生まれていない子は実子扱いを受けることはできず、他家や庶民の家の子として育つこともあった。一方で実力で権力を掌握した人物や経歴に不審のある人物が、高貴な人物の落胤であると自称、他称される例も多い。こういった落胤説が一部の系譜や伝承類では記載されていることもあるが、研究上疑問視されている例も多い。また『一谷嫩軍記』や『モンテ・クリスト伯』などの物語の題材としても使われることも多い。

歴史上の落胤、または落胤説のある人物

日本史

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人物人物概要公式な実父、養父 「落胤」としての父備考
秦河勝

古墳時代飛鳥時代官人

秦丹照または秦国勝 安閑天皇 本朝皇胤紹運録』では、安閑天皇の子豊彦王の注釈に「現神。播磨国大僻大明神是也。秦氏祖云云」(現人神播磨国大避神社の祭神大僻大明神である。秦氏の始祖であるという話もある)という記述がある[2]。大避神社では「大僻大明神」を河勝だとしているが、これは秦氏の諸氏族の活動が、一族で最も著名な河勝と結びつけられた伝説であると見られている[3]
藤原不比等 飛鳥時代・奈良時代公卿 藤原鎌足 天智天皇 平安時代末期に作成された『大鏡』には、天智天皇が妊娠していた女御を鎌足に譲り、「この女御のはらめる子、男ならば大臣が子とせむ。女なら朕が子とせむ」と告げ、生まれたのが男児であったため不比等として鎌足の跡を継いだという記述がある。実際、鎌足が天智天皇の采女安見児を譲られたという記述は『万葉集』にある。ただし『大鏡』は中臣意美麻呂宇合麻呂を鎌足の子とするなど不正確な記述も目立ち、おそらく摂関時代に作り上げられた説と見られている。[4]。その後の『公卿補任』に「實天智天皇々子云々」という割書が記載され[5]、その後の『帝王編年記』や伴信友の『松の藤靡』等にも落胤説が記載されている[4]
聖武皇帝皇子 不詳 聖武天皇 続日本紀天平神護2年(766年)4月30日条には、石上朝臣志斐弖[注釈 1]所生の聖武天皇の皇子を自称する人物が現れ、勘問の結果虚偽と判断され遠流に処されたとある[7]
道鏡 奈良時代 志貴皇子 『続日本紀』には称徳天皇の宣命で「弓削大臣(物部守屋)」の後裔であるという物が見られ、同時代的には皇胤とはみなされていなかったが、『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』『僧綱補任』『公卿補任』等には志貴皇子の子で、白壁王(光仁天皇)の弟であるという記載がある。中世にはかなり信じられており、山科教言足利義満への太上天皇宣下に反対し、道鏡に法王が与えられたではないかという意見に対して「道鏡は天智天皇の孫である」と反論している[8]。明治25年頃には史学界で論争が起こったが、皇胤説を支持するものはほとんどいなかった[8]喜田貞吉は母方が弓削氏の一族であった可能性があり、宇佐八幡宮神託事件や称徳崩御後の行動から皇胤であったと主張している[8]
大江音人 平安時代初期の貴族学者 大枝本主 阿保親王 音人を阿保親王の子とする記述は『尊卑分脈』や『大江氏系図』などの系図類に見られるが、事実とは見られていない。倉本一宏は『公卿補任』に音人の母中臣石根の女が「阿保親王の侍女」であったという記述があり、これが元になったのではないかとしている[9]
高階師尚 平安時代前期の貴族 高階茂範 在原業平 在原業平が伊勢斎宮恬子内親王と密通して生まれたのが師尚であるという伝承は公家社会に広まっており、藤原行成の日記『権記』でも密通事件があったために高階氏のものは伊勢神宮に参らないと記述されており、また高階氏の孫である敦康親王を皇位につけるべきではない理由として挙げた記載がある[10]。『伊勢物語』第六十九段の古注釈に記載されたのはこのことが原因であると見られる[10]
空也 平安時代中期の僧 醍醐天皇 源為憲の『空也誄』や慶滋保胤の『日本往生極楽記』など、同時代人物によって空也の皇胤説は記載されていた[11]。『空也上人絵詞伝』には父である醍醐天皇が崩御する際に空也が駆けつけて土足で昇殿して焼香したという記述がある。空也の法統を組む空也堂の上人は天皇崩御の際に十六菊の紋章を描いた提灯を挙げ、全国の空也聖とともに行列を行うという慣習があった[11]
藤原頼成 平安時代の貴族 藤原伊祐 具平親王 具平親王と雑仕女の大顔との間の子で、大顔の死後に親王家の家司藤原為頼の息子の伊祐(紫式部の従兄弟)の養子として育てられた。遍照寺に月見に出かけた際に大顔が頓死した出来事は『源氏物語』の光源氏と夕顔のエピソードのモデルと言われている。
高階為行 平安時代の貴族  後冷泉天皇 後冷泉天皇と菅原増守の娘の子であり、天皇の乳母子の高階為家の養子として育つ[12]
藤原有佐 平安時代の貴族 後三条天皇 後三条天皇と掌侍の平親子との間の子であり、禎子内親王の乳母子の藤原顕綱の養子として育つ[12]。『今鏡』によると後三条天皇に似ていたという[13]
恂子内親王 斎宮 白河天皇 天仁元年(1108年)の斎宮選定に当たっては、白河上皇・堀河天皇の落胤を立てる方針が定まっていたが、候補者が多い上に母親もはっきりせず、上皇の記憶も曖昧であったため選定は難航していた。このため卜定が行われ、木工頭藤原季実の外孫が内親王宣下を受け、斎宮となった[14]
平清盛 平安時代末期の武将 平忠盛 白河法皇 『平家物語』では白河法皇と祇園女御の子とされている。また祇園女御の横に「妹」「姉」という記載がある本もあるが、これは後世に書き足されたものと見られる。落胤説については清盛存命時の公卿の日記などにはそのような描写は見られない。一方で後年のめざましい昇進ぶりから落胤説を肯定的に取る高橋昌明元木泰雄などの研究者もいる[15]
崇徳天皇 第75代天皇 鳥羽天皇 白河法皇 藤原璋子(待賢門院)は白河法皇の養子であり、白河の子である鳥羽天皇に嫁ぎ、崇徳を産んだ。鎌倉時代初期の説話集『古事談』では璋子は白河法皇と密通しており、その関係を知っていた鳥羽天皇は崇徳を愛せず、「叔父子」と呼んでいたとされる。この記述は『保元物語』など『古事談』以外の史料にはないが、『大日本史』ではこの記述は事実として扱われた[16]
平敦盛 平安時代の武将 平経盛 後白河天皇 江戸時代の浄瑠璃一谷嫩軍記』では「院の御落胤」とされた[17]
八田知家 平安・鎌倉時代の武将 八田宗綱 源義朝 『尊卑分脈』[18]、『系図纂要』の小田氏系図など[19]。知家が義朝の子であるという説は、後裔である小田氏源氏を名乗った南北朝時代以降に唱えられたと見られている[20]
島津忠久 鎌倉時代の守護 惟宗忠康 源頼朝[21] 島津氏の祖である忠久が頼朝の落胤であるという説は室町時代の永享年間(1429 - 1441)に書かれた「酒匂安国寺申状」が初見であり、その後江戸時代には島津氏薩摩藩の公称となった[22]
大友能直 鎌倉時代の守護 近藤能成
中原親能
源頼朝 大友氏の祖。『大友家文書』や『大友系図』によれば、頼朝と大友四郎大夫経家の娘の間にできた子で、後に中原親能の養子となったとされる。大友氏は後に平氏源氏藤原氏の姓を称しているが、平姓は祖父の経家が、源氏は頼朝が、藤原姓は養父中原親能が藤原姓を称したためであるとしている。一方で『志賀系図』や『松野系図』では、頼朝の子を身ごもった利根局が、古庄近藤能成の家に赴いて親能を産んだという記述がある。基本的に頼朝の子であるという記述は大友家の文書や系図類にしかなく、『吾妻鏡』では「古庄左近将監能直」という表記が複数回見られることから、実父は古庄近藤能成で、中原親能の猶子となったとみられる。大友氏は当時平氏を称しており、源氏を称するのは足利尊氏の猶子となった大友氏泰の代からである[23]
結城朝光 鎌倉時代の守護 小山政光 源頼朝 結城氏の祖。朝光の母寒河尼は頼朝の乳母であり、朝光は頼朝の猶子となり、その側近としても活躍した[24]。結城家17代当主結城晴朝が自筆し高椅明神栃木県小山市)に納めたといわれる『結城家之記』では、朝光は仁安2年(1167年)に生れ、頼朝の嫡子だったが、北条時政の子である実朝が嫡子となったため、治承4年(1180年)、14歳で結城に移ったと記されており、東京大学史料編纂所本の『結城系図』でも頼朝と寒河尼の子であるとされている[25]。また、『諸家系図纂』に収録された「白川結城系図」では「頼朝将軍御子」と記されている[26]。ただし、『諸家系図纂』に収録された「白河結城系図」「藤原結城」「小山結城」[27]や、『尊卑分脈』[28]等には記載がない。
日蓮 鎌倉時代の僧 後鳥羽天皇 日蓮自身は『佐渡御勘気抄』において自分を安房国旃陀羅(被差別階級)の子としているが、『聖人系図御書』などでは聖武天皇後裔の三国氏の子孫であるとしている。室町時代に成立した『産湯相承事』では、日蓮の生母が「梅菊」という名であるとされたが、これをもとに後鳥羽上皇と愛妾「亀菊」の子であるという説が生まれた。立正大学日蓮教学研究所が著した『日蓮教団全史』ではこの落胤説を否定している[29]
足利直冬 南北朝時代の武将 足利直義 足利尊氏 尊氏に実子と認知されず、足利直義養子となった。
岩松満純 室町時代中期の武将 新田義宗[30]
一休宗純 室町時代後期の僧 後小松天皇 東坊城和長の『東坊城和長卿記』明応3年8月1日(1494年8月31日)条には「秘伝に言う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之を知る人無し」という記述があり、歴史家も肯定説と否定説に分かれている[31]宮内庁は落胤説に基づき酬恩庵内にある墓所を陵墓「宗純王廟」として管理している。
岐翁紹禎 室町時代後期の僧 一休宗純 東坊城和長の『菅原和長日記』では、集雲庵の開基である岐翁が一休の実子であり、一休がその子に法統を伝えたことを「奇なる哉、偉なる哉」と評している[31]
大浦政信 室町時代後期の武将 大浦光信? 近衛尚通 津軽氏の祖。当初は近衛尚通の猶子とされていたが、弘化4年(1847年)の先祖改の際に津軽寧親が政信は尚通の庶子であると回答し、近衛家側もこれを認めている[32]
小田政治 室町時代後期の武将 小田成治
小田治孝
足利政知 『系図纂要』では成治の三男で[19]、治孝の養子[19][33]
浅井重政 浅井氏の祖 正親町三条公綱 寛政重修諸家譜』作成時に後裔の幕臣家から提示された系図によると、正親町三条公綱が嘉吉2年(1442年)に近江国に流され、文安3年(1446年)に同地で生まれた子が浅井氏の祖となる重政となったとしている。ただし浅井家は『寛永諸家系図伝』編纂時点では大江氏を称しており、『寛政重修諸家譜』の編纂者は『尊卑分脈』や『公卿補任』の記述から公綱が近江国に流罪となったような形跡は見られず、「うたがふべし」と指摘している[34]
細川藤孝 戦国時代の武将 三淵晴員 足利義晴[35]
二宮就辰 戦国時代の武将 二宮春久 毛利元就 『萩藩閥閲録』巻64「二宮太郎右衛門」家譜による。
井上就勝 戦国時代の武将 井上元有 毛利元就 『萩藩閥閲録』巻38「井上六郎右衛門」家譜による。元就の妾が井上元有に嫁ぎ、程無くして生まれたのが就勝であったとされる。
斎藤義龍 戦国時代の武将 斎藤道三 土岐頼芸 美濃国諸旧記』などでは、土岐頼芸の愛妾深芳野が道三に下げ渡され、半年ほど後に生まれた子が義龍であったとされる[36] 。信憑性は乏しく、江戸時代以降の創作ともされる。当時においても義龍の父親は道三だと認めている書状(六角義賢が永禄3年(1560年)、家臣に宛てた書状『六角承禎条書』)が存在する。
豊臣秀吉 関白 木下弥右衛門 天皇 松永貞徳の『載恩記』では秀吉自身が母親が天皇に側仕えしていたと語った記述などがあり[37]、『天正記』の『関白任官記』でも落胤を匂わせる記述を行わせている。
大谷吉継 戦国時代の武将 大谷吉房 豊臣秀吉 秀吉夫人高台院付上臈をつとめた東殿の子であるが、父親に関しては不明瞭であり、『国史大辞典』にもある豊後国の大谷盛治説、近江国人大谷吉房説のほか、青蓮院坊官大谷泰珍という説もある[38]。テレビ番組「決着!歴史ミステリー」では秀吉の子であるとされている[39]
東嶽 江戸時代前期の僧 北畠具教
天海 江戸時代前期の僧 舟木景光? 足利義澄
足利高基
天海自身は自らの系譜を語っていない。『東叡山開山慈眼大師縁起』のうち天海の弟子である胤海が記した『胤海記』には、「将軍義澄の御子といへる人も侍り」という記述があり、江戸時代には広く信じられていた。古河公方高基の子とするのは天保12年の奥書を持つ『宇都宮弥三郎系図』などである。1916年に『大僧正天海』を著した須藤南翠は両説を否定し、蘆名氏支流の舟木景光の子であるとしている[40]
淀殿 戦国時代の女性 浅井長政 織田信長[41]
松花堂昭乗 江戸時代前期の僧 豊臣秀次
千少庵 茶人 宮王三郎三入 松永久秀 少庵の母である宗恩千利休に嫁ぐ前に松永久秀の側室であったとされ、17世紀頃から千家の伝承では実父は松永久秀であったとされるが、1944年の資料発見により能楽師の宮王三郎三入が実父であったという説が定説となっている[42]
鈴木一蔵 戦国時代の人物 徳川家康 [要出典]
永見貞愛 知立神社32代神主 徳川家康 結城秀康双子の兄弟との説がある[43]
土井利勝 江戸時代の大名、老中大老 土井利昌 徳川家康
水野信元
徳川実紀』では、土井利昌の嫡子であると述べたうえで、注釈として水野信元の庶子であり、3歳のときに土井家に迎えられたとしている。また、別の説として家康が鷹狩をしている際、道端で乳母が赤子の利勝を抱えて泣きながら訴えていたという。それを見た家康は輿の中に乳母と利勝を召し入れた。外戚でもあることから厚く遇していたところ、実は家康の子ではないかと噂するものもいたとしている[44] 。『幕府祚胤伝』では、落胤であるという話はあるが書物にはないとしている[45]
松平康重 江戸時代の大名 松平康親 徳川家康[46]
井伊直孝 江戸時代の大名 井伊直政 徳川家康[47]
松平民部 江戸時代の武将 徳川家康 幕府祚胤伝』では、家康が41歳の時の子であったが、因避により、秀康の養子とされたという。秀康の死後は忠直に仕え、大坂の陣で戦功をあげたが、間もなく病死したとしている[45]
小笠原権之丞 江戸時代の武将 小笠原広朝 徳川家康 『幕府祚胤伝』では、小笠原広朝に養子に出されたが、キリシタンであったために追放され、大阪夏の陣で戦死したとしている[45]
2代目後藤庄三郎
(広世)
江戸時代の御金改役 初代後藤庄三郎 徳川秀忠 10代目後藤庄三郎が寛政10年(1798年)に幕府に提出した『後藤庄三郎由緒書』では二代庄三郎広世の生母は初代後藤庄三郎に家康の命で下げ渡された「大橋局」としており、「申し伝えの儀はあるが、恐れ多いために書面には書けない」という落胤を匂わせるような記述が付加されている[48]。江戸時代末期に書かれた『視聴草』では、大橋局は秀忠の正室崇源院付の侍女で、秀忠の寵愛を受けた後に家康の命で初代庄三郎に下げ渡されたとしている[49]
保科正之 江戸時代の大名、会津藩初代藩主 保科正光 徳川秀忠 母親は秀忠の乳母大姥局の侍女であった浄光院。秀忠の正室崇源院をはばかり、見性院に預けられた後に保科正光の子として養育された。 後に認知されて松平姓を名乗ることを許され、孫の正容の代から松平姓を称した(会津松平家)。
求厭 江戸時代前期の僧 豊臣秀頼 臨終の際に秀頼の第二子であると告白したとされる[50]
天草四郎 天草の乱の指導者 益田好次 豊臣秀頼[51]
千宗旦 茶人 千少庵 後水尾天皇 美術史家の磯野風船子による主張[42]
伏見宮貞致親王 伏見宮家当主 伏見宮邦尚親王 伏見宮貞清親王 『伏見宮系譜』には邦尚親王の子とされているが、同時代史料ではその父の貞清親王の子である。幼少期に丹波国尾口村の安藤家に養子に出され、京都西陣の刀鍛冶、埋忠の弟子となっている。当時の当主であった邦尚親王が病弱であり、承応元年(1652年)に後継者候補として認知され、伏見宮家に入った。しかし承応2年(1653年)邦尚親王が没した際には、弟である邦道親王がその後を相続したため、一時逼塞を余儀なくされた。ところが3週間後に邦道親王も病死したため、伏見宮家に残る男子は貞致ひとりとなった。しかしが後水尾法皇が自らの子に伏見宮家を相続させる計画を立てたために継承問題は難航し、伏見宮家家司庭田雅純らは幕府の調停を要請した。万治3年(1660年)にようやく親王宣下を受けて元服、伏見宮家の相続が認められた[52]
清泰院 前田光高正室 徳川頼房 徳川家光
松平長七郎 江戸時代の武士 徳川忠長 忠長が切腹した後に全国を流浪し、徳川頼房の庇護を受けたとされるが、忠長が28歳で切腹した際にすでに20歳となっているなど伝承には矛盾が多い[53]。『幕府祚胤伝』では「長七」の話は広まっているが、その説は採るべきではないと否定されている[54]。後に講談映画の題材となった[53]
柳沢吉里 江戸時代の大名 柳沢吉保 徳川綱吉[55] 護国女太平記』などの柳沢騒動物の作品では吉里を将軍にしようとする吉保の策動が描かれている。
天一坊改行 江戸時代の人物 徳川吉宗 享保13年(1728年)、吉宗の落胤であると称して浪人を集めたが、幕府に捕らえられ獄門にされた(天一坊事件)。
藤堂平助 幕末新選組隊士 藤堂秉之丞 藤堂高猷 新選組隊士であった永倉新八が著した『同志連名記』等に「藤堂和泉守落胤」との記載がある。
二荒芳之 華族 北白川宮能久親王 能久親王の没後に認知され、伯爵に叙される
上野正雄 華族 北白川宮能久親王 能久親王の没後に認知され、伯爵に叙される
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現代

中国史

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王郎 新末後漢初の群雄 成帝
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ヨーロッパ史

ルネサンス期の教皇ルネサンス教皇)は多くの私生児を儲けたことで知られ、チェーザレ・ボルジアのように教皇の子であることが公然視されていた人物もいた(Category:教皇の非嫡出子)。

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ヘリオガバルス ローマ皇帝 セクストゥス・ウァリウス・マルケルス英語版 カラカラ カラカラの伯母ユリア・マエサの孫。ローマ皇帝に擁立されるに当たってカラカラの落胤と称された。
ヨハネス11世 教皇 スポレート公アルベリーコ1世 セルギウス3世[60]
チェーザレ・ボルジア 枢機卿、ロマーニャ公 ドメニコ・ダリニャーノ アレクサンデル6世 アレクサンデル6世はガンディア公フアンやチェーザレといった実子を引き立てたことで知られる(ボルジア家)。
カスパー・ハウザー 保護された少年 バーデン大公カール
ナポレオン・ボナパルト
ニュルンベルク1828年に保護された身元不明の少年。少年は長年監禁されていたと見られており、詳細について語ることなく殺害されたが、存命中からバーデン大公カールやナポレオンの子であるという噂が存在していた[61]
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脚注

参考文献

関連項目

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