藤原清輔
日本の公卿・歌人
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経歴
天養元年(1144年)、崇徳上皇より父・顕輔が勅撰集『詞花和歌集』の撰集を命ぜられ、清輔もその補助に当たったが、顕輔と対立し、ほとんど清輔の意見は採用されなかったという[2]。その後も父に疎まれ昇進面で支援を得られなかったためか、40歳代後半まで位階は従五位下に留まった。
二条天皇に重用され『続詞花和歌集』を撰したが、奏覧前に天皇が崩御し勅撰和歌集にならなかった。久寿2年(1155年)、父から人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を伝授され、六条藤家を継ぐ。御子左家の藤原俊成に対抗した。
保元元年(1156年)従四位下。のち太皇太后宮大進に任ぜられ、藤原多子に仕えた。共に仕えた同僚平経盛とは弟・重家と共に親密な交流を持った。
人物
系譜
- 父:藤原顕輔
- 母:高階能遠の娘
- 妻:不詳
- 男子:尋顕
- 男子:公寛
- 養子女
- 養子:藤原清季 - 実は藤原家基の子