藤原顕家
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| 時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
|---|---|
| 生誕 | 仁平3年(1153年) |
| 死没 | 貞応2年(1223年)頃 |
| 別名 | 九条(号) |
| 官位 | 正三位、非参議、左京大夫 |
| 主君 | 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇 |
| 氏族 | 藤原北家末茂流六条藤家 |
| 父母 | 父:藤原重家、母:藤原家成の娘 |
| 兄弟 | 経家、顕家、有家、保季、資家、成円、仁快、中山兼宗室 |
| 妻 | 院女房新大夫局(源師兼の娘) |
| 子 | 知家、顕氏、清家、重継、尊家 |
藤原 顕家(ふじわら の あきいえ、旧字体:藤󠄁原 顯家)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家末茂流。従三位・藤原重家の次男。官位は正三位、非参議。九条を号す。
永万元年(1165年)六位蔵人に補され、同年従五位下に叙爵する。永万2年(1166年)に尾張権守に任ず。
嘉応3年(1171年)民部権少輔、承安2年(1172年)少納言となり、承安4年(1174年)従五位上に叙される。三河守・右近衛少将を歴任した後、安元3年(1177年)正五位下次いで従四位下に進む。
しかし、治承3年(1179年)11月17日、平清盛によって治承三年の政変が勃発すると顕家は官職を解かれた。その後、寿永元年(1182年)従四位上・右近衛少将に叙任されて還任し、寿永2年12月(1184年2月)に正四位下に陞叙。元暦2年(1185年)には能登守を兼任した。元暦4年(1187年)左京大夫に遷る。
建仁元年12月(1202年1月)従三位に叙され公卿に列す。承元2年(1208年)に正三位に叙されるが、建保3年(1215年)8月に63歳で出家するまで13年間官職に就く事はなかった。その後の消息は不明だが、貞応2年(1223年)に子の知家が顕家の喪に服しているため[1]、この頃に亡くなったと推定される。