藤橋 (立山町)
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| 藤橋 | |
|---|---|
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| 基本情報 | |
| 国 |
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| 所在地 | 富山県中新川郡立山町芦峅寺 |
| 交差物件 | 称名川 |
| 用途 | 道路橋 |
| 路線名 | 富山県道43号富山上滝立山線・富山県道170号弘法称名立山停車場線 |
| 建設 | 1970年(昭和45年) |
| 座標 | 北緯36度35分7.6534秒 東経137度26分46.3991秒 / 北緯36.585459278度 東経137.446221972度座標: 北緯36度35分7.6534秒 東経137度26分46.3991秒 / 北緯36.585459278度 東経137.446221972度 |
| 構造諸元 | |
| 全長 | 109.5 m |
| 幅 | 7.0 m |
| 地図 | |
| 藤橋の位置 | |
| 関連項目 | |
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歴史
伝説
『越中志徴』には
卍山広記立山寄付券記序に、越中之立山。山径険而茅塞。山川急而無レ橋。古来欲レ登レ者無レ不レ患レ之。茲加州金沢道俗。見二其如一レ是。捨レ財作レ券。寄二附之岩崎寺一。約云。自レ今以後。年々収二此息利益一。以除二山径茅草一。以造二山川藤橋一。尽未来際レ莫令二断絶一。烏乎。用心之勤。誰不二称嘆一。云々。一日浄安。極楽。妙慶三寺上人。捧レ券将来。乞レ措二一言於其端一。乃揮レ毫応レ責也。とあり。按ふに、浄安・極楽・妙慶三寺は、皆金沢泉野寺町浄土宗の寺院なれば、此寺院の住職等の懇志より起りたるなりと聞ゆ。岩崎寺は岩峅寺の誤写なるべし。
とあり、昔から立山登山の難所であった称名川に加賀国金沢の僧が私財を投げ売って架橋する端緒を作ったと伝えられる[6]。
また道元禅師が参拝のためにこの地に来たところ増水のために渡渉できず、岩上に坐禅して減水を待っていたところ、彼方の山より12匹の藤蔓を持った十二光仏の化身である猿が現れ、それを以て橋を造ったとの伝承もあり、これに感じて道元がよんだといわれる「立山の南無とからめし藤橋を踏みはずすなよ彌陀の浄土へ」という和歌を刻んだ碑が橋のたもとに建立されている[7]。ただし、猿に助けられて川を渡ったという伝説は、道元ではなくて佐伯有頼の話として伝えられることもある[3]。
近世


このようにその濫觴に様々な伝承が残る藤橋であるが、1682年(天和2年)の『立山路往』によれば藤橋はもともと籠を以て両岸を接続する籠の渡しであったとされる[1]。これが後に藤蔓を以て作られた藤橋となったとされ[1]、『日本行脚文集』(1683年(天和3年))には次のごとくその様子を伝えている[8][3]。
嶮河の欠路をつたふ、かの籮の渡につく。今は葛藤の絃橋を四十間のいらち川にかけたり。凹に撓めるが毒蛇の口にわたせしもかくこそ。見るさへ肝つぶれぬ。梢颪のたゆめるひまに目ふたぎ。南無の声ともにむかふの岸につきぬ。
かくのごとく藤橋は立山登山の難所として伝えられており、1806年(文化3年)に立山に登った海保青陵は『日本九峰修行記』に藤橋について「軽業の綱渡り」と言い、宮崎成身の『視聴草』(1830年(天保3年))にも「立山禅定するもの十人に九人は此橋より引返す」とするなど、その恐ろしさを強調して記載する文献が多く残っている[3][1]。
また、『和漢三才図会』に「渡シ二藤橋ヲ一行人取ル二垢離ヲ一」とある如く[9]、この橋は立山参拝にあたっての禊の地としても知られ、明治初期までは立山に登る人々はこの橋の附近においてその身を清流によって清めたといわれている[10]。『廻国雑記』には、
かくて立山に禅定し侍りけるに、先三途川に到りて、思ひつゞけらる、この身にて渡るもうれしみつせ川 さりとも後の世にはしづまじ
とあり、この川が聖俗の境界となっていたことが知られる[11][12]。
近代以降

明治初期に藤蔓だけでは危険であるため、藤橋は鋼線を以て作られた吊橋に架替られ、その後昭和初期に入って木板を敷き詰めた頑丈な吊り橋にとってかわった[4][5]。この後、1961年(昭和36年)よりコンクリート橋脚の永久橋の建設に着手し[13]、1963年(昭和38年)5月15日に竣工して渡橋式を挙行したが[14]、この橋は1969年(昭和44年)8月11日の水害によって流出した[15][16]。この流出後の1970年(昭和45年)に改めて自動車交通可能な近代的永久橋を架したものが、現橋となっている[5][1]。かつて氾濫の多かった川には多数の堰堤が建設され[10]、川床に土砂が堆積して近世の文献に伝えられるような高度感や恐怖感は失われており[1]、藤橋は名のみを留めることとなった[3]。
