廻国雑記

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廻国雑記』(かいこくざっき)は、室町時代道興(道興准后)が著した紀行。自身の詠んだ和歌や漢詩を交えた紀行歌文集である。表題は『廻国記』あるいは『回国雑記』とも書かれる[1]。また江戸中期には連歌師宗祇を著者と見なして『宗祇廻国雑記』などの表題でも流通していた[2]

文明18年(1486年)6月から翌文明19年(1487年)5月にかけて、道興が北陸東国奥州を行脚した記録である。冒頭は6月上旬、を離れるにあたっての足利義政義尚親子との歌の贈答、近衛房嗣らとの送別の宴が書かれている。6月16日に岩倉長谷の自宅を出立して以降は、訪れた場所・寺社・人物などを示す短文と、その地で道興が詠んだ詩歌が続くという構成が繰り返される[3]。詩歌は道興自らによる342首の和歌に加え、連歌俳諧発句漢詩(五言絶句1首を除き[4]全て七言絶句[1]が含まれ、当時の紀行文としては最大の分量とされる[4]

行脚および執筆の目的として、道興の2つの立場(聖護院門跡歌人)によるものを挙げる研究者が多い。

  • 行程上にある修験道の拠点を本山派の領袖たる自らが来訪することで、本山派の権威を維持する目的。本書にはこの目的は明示されていない[5]ものの、甲斐国における旅程および関係文書からその政治的意味合いを分析した例[6]、武蔵大塚の十玉坊に2ヶ月ほど滞在し様々な宗教行事・酒宴などに関わっていること[7]、さらに檀那株を安堵する文書など当地での問題を解決する活動を行っており、当初の帰京予定が延期されていること[8]など、様々な観点からの指摘がある。
  • 歌枕の地を巡り、詩歌集として残す目的[9][5]。本書にはいち修験僧としての、あるいは門跡としての宗教的な言及がなく[10]、一方で訪れた地名の由来[11]や旅の感慨、現地の人々との交流[10]などが多く綴られていることを理由として挙げる研究者が多い。

この他に、修験者本来の修行目的、応仁の乱で焼失した聖護院の復興資金を募る目的が指摘されている[9]。さらに修験道の関係者だけでなく越後で上杉房定(相模守)、武蔵で大石定重(信濃守)、甲斐で武田信昌(刑部大輔)、陸奥で白川入道[注釈 1]など世俗的支配者からの接待を受けていることから、幕府の意を汲んだ情勢視察[9]や幕府と諸侯との意思疎通[13]といった世俗政治に関連した目的も推察されている。

宗祇著者説

1756年宝暦6年)の写本。宗祇の名が冠されている(国文学研究資料館所蔵)

江戸時代中期には、本紀行が道興と同じ室町時代の連歌師宗祇の作と考えられていた[14]寛政11年(1799年)刊行の本居宣長玉勝間[15]文化5年(1808年)刊行の曲亭馬琴『敵討枕石夜話』[16]でも宗祇法師の作としている。宗祇著者説が広まった原因として、元禄14年(1701年)に刊行された本書の写本が『宗祇廻国雑記』という表題であったことが挙げられている[17]が、これは宗祇の200回忌[注釈 2]便乗したものではないかとの指摘もある[18]。また宗祇自身が文亀2年(1502年)に自筆写本を作成しており、前島康彦はこの写本が誤解の原因ではないかとしている[14]

これに対し、江戸時代後期の国学者たちは相次いで道興著者説を示した。塙保己一は『群書類従』に収録した本書の著者を道興としている[19]尾崎雅嘉は『群書一覧』において元禄14年本の著者が誤っていると指摘したうえで、文中の旅程から道興の著作であることが明らかであるとしている[20]。さらに関岡野洲良文政8年(1825年)に刊行した本書の注釈書『廻国雑記標註』の序文[21]において、本書の白河における旅程[22]広瀬蒙斎の『白河古事考』に収録された記録と一致していること、甲斐国都留郡妙法寺に道興の旅程が記載されていることなど、道興の行動を記録した他文献との一致を列挙し、本書の著者が道興であることを示した[23]。曲亭馬琴も、後年に上梓した『南総里見八犬伝』では道興の歌を引用して芝浜(港区芝)の風景を表現しつつ、「この書を宗祇の紀行とするものは非なり」と注釈を付けている[24]朝川善庵は『善庵随筆』において宗祇著者説を誤りとしつつ、道興著者説も「覚束なく覚ゆ」とし、後の時代の作である可能性を示唆した[25]が、現代では道興を著者とする見方で一致している。

なお、宗祇は文明4年(1472年)に美濃国に逗留した際、下向した道興を迎える宴に同席し歌を詠んだ記録が残っている[26]。さらに宗祇は道興の実弟である関白近衛政家とも親交があり、歌会などを通じて互いの歌風に影響を与えた可能性が指摘されており[27]幸田露伴も「法源[注釈 3]の誤を為すも故無しとせざる也[28]」と歌風の類似が著者誤解の遠因としている。

評価

本書は地誌編纂の観点から、上質の資料として広く評価されている[29]芳賀幸四郎は室町時代に執筆された他の紀行文と合わせ、当時の地方を知る材料と評している[30]。実際、旅程に重なる現代の自治体で編纂された地方史の多くが、本書を参照している。ただし地域によって記述量に多寡があり、地誌としての不徹底を指摘する意見[31]や、特に記述が短い地域においては「大した資料にはならない」という評価も見られる[32]

文学作品としての評価は分かれている。幸田露伴は次のように書き、美麗ではないが味のある文であると評している。

雑記の文、修めず飾らずと雖も、淡々の中に味有り、楚々の中に情有り、且又古を考え往を知るに於いて、頗る稗益あり。愛す可きの什といふ可し。
幸田露伴、『海道記 廻国雑記(袖珍名著文庫;巻47)』5頁[28]

井上豊は本書に含まれる歌の形式から著者の多才さが垣間見え、さらにいくつかのエピソードに物語風の趣が見られるとして評価している[33]萩原竜夫は歌に含まれる本歌取の多さから独創性に欠ける面を指摘しつつ、修行者としての強い表現も散見され[34]、さらには西行を範としつつもより深く地域の風俗・伝承に傾倒したことが伺える文章を高く評価している[35]。伊藤敬は特に詩歌について、自由闊達であり、歌枕以外の地名も巧みに取り込んでいる点を指摘し、道興の力量を高く評価している[4]。これに対し、同時代以前の他の作品と比較した批判的評価も見られる。例えば保坂弘司は、中世三大紀行とされる『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』との対比として、本書の文芸作品しての価値を低くとらえている[36]奥野純一は室町時代に多く執筆された他の紀行文と合わせて、文芸面での不振を指摘している[37]。またこれら室町期の紀行文に共通して見られる「未知の土地に対する心情」と「歌枕に寄せた旅情」の配合について、類型的であるとする評価も見られる[31]

旅程

御湯殿上日記[38]および近衛政家が著した『後法興院記』には、道興が文明18年6月6日に出発の挨拶のため御所に参内した[39]とあり、本書の冒頭と一致する。ただし目的地は北国とされ、関東や奥州へ向かう意図は記載されていない。

一方、これらの資料には道興の帰京が翌文明19年5月19日であったことが記録されている[40]が、本書で日付が明らかなのは文明19年3月2日に利根川舘林佐野に至ったところ[41]までであり、以降松島塩釜まで到達し名取川に戻ったところで唐突に終わっている[42]。高橋良雄は、冒頭部で出発前の様子を詳細に記したことと帰京の情景を全く描いていないことのギャップについて、聖護院焼失の報を受けて旅を中断せざるを得なかった可能性を示唆している[43]。一方、萩原竜夫は当時既に知られていた名取の老女の物語を踏まえ、道興があえて名取川を紀行の結末に添えた可能性を示唆している[44]

中田嘉種は、(本紀行に記述のない)名取川から京都までの帰途におおよそ1ヶ月を要したものと推定している[17]

本書に記載された行程および主な地名は以下の通りである[45][46]。なお、出典のない記述は関岡『廻国雑記標註』における注釈に基づく。

旅程・地名
地名
山城長谷(6月16日)→大原
*長谷は京都市左京区岩倉長谷町、当時聖護院があった場所。
近江葛川→朽木
若狭小浜<曹源院>→三方→恋の松原→浦見坂→機織の池
  • 小浜は小浜市雲浜に比定されている。
  • 恋の松原[47]、機織の池[48]はいずれも美浜町にある歌枕の地である。
越前敦賀→しらきとの橋→高木の里
  • 「しらきと」は日野川下流域(白鬼女川とも呼ばれた)を指し、越前府中鯖江の間にあったと記載されている。
  • 高木については延元2年の脇屋義助と細川出羽守の越前府中城を巡る戦いを引用しており、越前市高木町に比定される。
加賀立花→洲濱川→しき地(敷地)いみなみ(弓波)いぶり橋もとおり(本折)→汐ごしの松→ほとけの原→吉野川白山吉岡つるぎ(劔)矢矯(矢作)のゝ市つばた高松
  • 洲濱川について、「小松より三十町計東の方洲浜村あり」との注釈がある。道順および史料から大聖寺川下流域の別名とする日置謙の説[49]が有力だが、森田柿園は須天村(小松市須天町)に比定している[50]
  • 汐越しの松は越前と加賀の国境付近と記載されており、「橘のさとのならびに入るべきなり」と記載順と行程に齟齬があることを示唆している。あわら市には汐越しの松跡の碑がある[51]。一方、高橋良雄は記載が行程順であると仮定して安宅付近に存在した可能性について考察している[52]
  • 仏の原は『平家物語』に登場する仏御前ゆかりの地とされ、金剱宮に言及している。この記載から、従来は鶴来に比定する説が見られたが、高橋良雄は前後の行程などから小松市原町に比定している[53]
能登菅原→杉の屋よつ柳小金森→藤井久江の谷内石動山
越中長煉の森→ねりあひ[54][注釈 4]岩蔵川大森立山(三途川・もろもろの地獄)→宮崎界川
  • 長煉(ながれ)の森について『標註』は「越中国図に新川郡長煉村みゆ其辺か」[注釈 5]としているが、近年の研究では石動山から下った白河城跡付近にあったとされる奈賀礼の杜に比定されている[56]
  • 立山の三途川は、芦峅寺地区を流れる姥堂川に比定されている[57][58]
越後たもの木→かざばみ→砺なみ→黒岩→駒がえり→やまと川→越後国府(7月15日着)→長濱柏崎→相見川→かさ島→鯨波安田山室見置(三桶)渋川大か井(大貝)きおとし(木落)→うるし山→壺池
  • 「たもの木」は市振と外波の間の地名との注釈があり、糸魚川市市振玉ノ木地区に比定される。
  • 「かざばみ」は風喰村との注釈があり、市振と外波の間に風羽見村が存在していた[59]
  • 砺なみ(外波)について、越中国砺波ではないとの注釈がある。
  • 黒岩は「歌の駅より青海に至る間、青海川の端の山の根にあり」とある。かつて北陸本線親不知青海間に黒岩信号場があった。駒がえり(駒帰)も「外波と青海の間にて歌の駅に近し」とある。この付近には国道8号駒返トンネルがある。
  • 越後国府は正確な位置が特定されていないものの、上越市今池付近が有力と考えられている[60]
  • 柏崎・相見川(青海川)・かさ島(笠島)・鯨波北陸本線に対応する駅名があるが、本紀行での記述順は駅の並び順と異なる。
  • うるし山、壺池はそれぞれ南魚沼市後山(うしろやま)地区・坪池地区に比定する説が見られる[61]
上野くつぬぎ→ふくろふ(吹路)相俣→湯の原→池の原→なぎなた坂→大蔵坊→烏川→大が松→杉本(8月15日出発)→宮の市→せしもの原→しほ川→しろいし→いたくら野→あひ川かみ長川
  • なぎなた坂は三国街道中山宿近くの中山峠に至る坂道との注釈があり、同地には歌碑が建立されている[62]
  • 池の原は湯ノ原村新巻とする説がある[63]
  • 大蔵坊は群馬郡西国分村を拠点とした修験者・道場であり[64]、本紀行以外にも記録が多い[65]。杉本坊は本紀行以外の史料に乏しく、『標註』でも杉本を名乗る坊が本郷村(現在の藤岡市本郷)と榛名山にあって決めがたいとの注釈がある。現在も藤岡市本郷[66]の他、高崎市乗附町[67]、藤岡市古桜町[63]など諸説ある。
  • 大が松は『標註』で所在不明としており、高崎市豊岡とする説と藤岡市落合とする説がある[68]
  • 瀬下(せしも)、塩川(しほかわ)、白石(しろいし)、板倉(いたくら)はそれぞれ現在の富岡市瀬下地区、高崎市吉井町塩川、藤岡市白石、藤岡市緑埜(板倉村があった)に比定されている。
武蔵をしま(小島)岡部村君浅間川
下総古川なか田→こほりの山
  • こほりの山(郡山)は葛飾郡郡山郷水海村(現在の古河市水海)と注釈にある。
上総千種の濱櫻井の濱吉野郷ふときさら津→あづま神野山
安房清澄山天津まえ原→磯村那古観音野島が崎かち山河名のこぎり山
相模みさき浦川鎌倉
下総2鳥はみ
  • 鳥はみについて、葛飾郡古河領内、日光街道の西側に鳥喰村(とりはみむら)があると注釈にある。現在の古河市鳥喰。
  • 場所は不明だが、この後佐野に至るまでに9月9日を迎え、長陽の宴を催している。
下野さの日光山山菅の橋滝の尾中禅寺→歌の濱黒髪山→座禅院→宇都宮粉川寺)→きぬ川
  • 佐野について、佐野の舟橋は万葉集(歌番号14/3420)にも現れる歌枕だが、これは烏川を渡る上野国群馬郡佐野村を指していて、本紀行における佐野は(前後の地名から)下野国の佐野であるとの注釈がある。
  • 日光山は室町時代から慶長年間に至るまで座禅院権別当時代と言われるほどに座禅院が隆盛を誇った[69]が、江戸期に入って廃れた(『標註』では名前が見当たらないとの注釈がある)。
常陸小栗さくら川→山田慶城の坊→筑波山(9月24日)→みなの川→八重重→つくば川(いささの橋)→鵜飼川
  • 山田慶城の坊は真壁郡山田村(現在の桜川市真壁町東山田)にあり、江戸時代は蓮上院と呼ばれていた[70]
  • 八重重ね(やえかさね)は筑波山の霊石であり、弘法大師が山に結界を張って邪神悪獣を遠ざけたときに、1人の神女巫女が降り立った場所だと注釈にある。
  • 筑波川は桜川の別称で、伊佐々川ともいう[71]
  • 鵜飼川について「常陸河内郡を流るる蚕飼川あり此名の訛るなるべし」と注釈がある。
下総3稲穂の別当が坊(9月28日)→ちごの原
  • 「稲穂の海」は多くの文献で印旛沼に比定されている。因幡、引佐、員弁など「イン」と音読みする漢字を「いな」と読む例を挙げ、印旛も「いなば」「いなほ」と読むのだろうと注釈にある。
  • 「ちごの原」(児の原)については、香取郡大須賀村(現在の成田市西大須賀)にある児塚との関連について注釈がある。
  • 印旛に滞在中に9月盡(末日)、10月朔日(1日)を迎えている。
武蔵2あやしの橋→岩つき浅草浅草寺)→まつち山浅茅が原おもひ川隅田川→忍岡→小石川鳥越の里芝の浦あらゐまりこの里駒林新羽帷子の宿→岩井の原→もちひ坂
  • 忍岡について、「寛永寺の地古名前忍岡なり」と注釈があり、既に江戸時代にはこの名前が廃れていたことが伺われる。東京都立忍岡高等学校は移転前の地名を引き継いでいる[72]
  • 岩井の地名が橘樹郡に無く、岩間の可能性や荏原郡磐井神社との関連について注釈で言及している。なお、現在の保土ヶ谷区には岩井町がある。
  • もちひ坂について「今は焼餅坂と云う」と注釈がある。これは現在の横浜市戸塚区にある旧東海道の坂道とされる[73]。近年の郷土史研究においては、横浜市港南区最戸南区別所の境界にある餅井坂[74]に比定されている[75]
相模2すりこばち坂→放れ山→鎌倉→亀がゐの谷扇が谷ささめがやつ→梅が谷→うりが谷→霧がやつ→胡桃が谷→べにが谷→化粧坂鶴岡八幡宮由井が濱建長院ほか五山瀬戸金澤称名寺)→藤澤花水川大磯鴫立澤→梅澤→丸子川小田原早川の浦風祭りの里箱根山
  • すりこばち坂は「相模国鎌倉郡にあり今摺鉢山と云う戸塚と鎌倉の間」と注釈にある。昭和期の資料では磨鉢山(するばちやま)という地名が現存していることが伺える[76]。位置については横浜市立小菅ヶ谷小学校付近[77]にあった花立の坂[78]に比定する説のほか、港南区永谷に下る坂とする説もある[79]
  • はなれ山は「戸塚道の東に芝山ありこれをはなれ山と云う」と注釈にある。大船駅近辺にあった腰山・長山・地蔵山が離れて並んでいたことから、総称して離山と呼んだ[80]。造成などで崩され現存しないが、バス停留所に名前が残る[81]
  • 亀ヶ谷、扇ヶ谷、笹目ヶ谷、梅ヶ谷、瓜ヶ谷、霧(桐)ヶ谷、胡桃ヶ谷、紅(弁)ヶ谷はいずれも鎌倉周辺の地名。梅が谷は「仮粧坂の下の北の谷なり」と注釈にある。うりが谷(瓜ヶ谷)は妙本寺周辺の地名で、かつて比企尼が済んだことから比企ヶ谷と呼ばれ、比企尼が瓜を育てたことにちなんで瓜ヶ谷という別名がついたという[82]。「霧がやつ」(桐ヶ谷)は「経師ヶ谷の東の谷」、胡桃が谷は「浄妙寺の東の谷」、べにが谷(弁ヶ谷)は「補陀洛寺の東の谷」とそれぞれ注釈にある。
  • 梅澤は「大磯と小田原の間にあり(中略)吾嬬明神あり橘姫を祭る」と注釈にあり、二宮町梅沢地区に比定される。
伊豆三島→矢たての杉
  • 矢たての杉(矢立の杉)についての注釈では、『曽我物語』巻七の矢立の杉のくだりを引用し箱根近辺での比定を試みているが特定はできておらず、また碓氷峠笹子峠二戸など全国に矢立の杉があることを述べている。近年の郷土史文献では、三嶋大社の直後にあることから境内あるいは近辺に存在していた前提で記述するもの[83]、また駒形諏訪神社の矢立の杉[84]に比定する[85]例がある。
駿河足高山→かつら山→すはま口→富士の麓むら山田子の浦→ふじのなる澤→みほの入海浮島が原
  • かつら山は駿東郡葛山村(現在の裾野市葛山)に比定。
  • すはま口は富士登山道のうち須山口の誤記であろうと注釈にある。須山口からの登山道は宝永大噴火による消失後に再建されたが、陸軍演習場の設置によって完全に廃れた[86]
  • なる澤(鳴沢)について万葉集の歌歌番号14/3358を引用し、「火もえ水のわきかへるおとつねにたえざれば鳴澤とは申」と注釈にある。都留郡鳴沢村、駿東郡須山村下山口村の間にあった鳴沢を紹介しているが、場所の特定には至っていない。
相模3あしがら山→山彦山→鞠子川→八幡→つるぎ澤→蓑笠の森→ふたつ橋→大山寺霊山(寺)→日向寺→熊野堂→小野
  • 山彦山について「梅澤小田原の間国府津より十町ばかり入りて沼代村と曽我別所の間にある峠」と注釈にある。高橋良雄は大磯丘陵南西端の曽我丘陵に山彦山という別称が見られるとしているが、足柄山(金時山)→山彦山→鞠子川(酒匂川)という行程に矛盾があり、本紀行における記載順の誤りを指摘している[87]
  • 八幡は大住郡八幡村(現在の平塚市)と注釈にある。高橋良雄はこの後の剣沢(山彦山の北)、蓑笠神社(中井町)と続く行程との矛盾を指摘し、小田原市小八幡に比定される可能性を指摘しつつ、平塚の八幡にわざわざ迂回して立ち寄った可能性、往路に立ち寄った内容を復路に書いた可能性についても言及している[88]
  • 二つ橋は大山の入り口にある鳥居の先にあった橋で、地名ともなっている[89]
  • 熊野堂については大住郡日向村と愛甲郡厚木村を候補として挙げ、厚木の可能性が高いと注釈で述べている。
  • 小野は愛甲郡小野村(現在の厚木市小野)、「小野神社今も大社あり」と注釈にある。
武蔵3半澤→霞の関→恋が窪→宗岡→堀兼の井(高井戸)→やせの里→入間川→佐西(観音寺)→黒須川武州大塚(十玉坊)→大石信濃守館河越(最勝院)→常楽寺→大井川→善知鳥坂月吉の館→すぐろ→野寺野火留の塚→膝折→十玉坊→所澤観音寺)→くめくめ川→武州大塚(新年)→山家の勝地→濱崎
  • 半沢は多摩郡図師村(現在の町田市図師町)の中にある小名との注釈がある。また武蔵国には榛沢郡(はんざわぐん)もあるが、そちらは考えにくいと注記している。
  • 霞の関は関戸を指していると注記しつつ、「正しき古趾にあらず」(歌枕としての霞の関ではない)としている。また『標註』と同じ江戸期に上梓された文献の多くが関を小山田村に比定している点について、『吾妻鏡』『太平記』などに小山田の名が見えないことを理由として否定している。
  • 恋が窪は多摩郡恋が窪村(現在の国分寺市東恋ヶ窪西恋ヶ窪)に比定している。
  • 堀兼の井は『枕草子』『更級日記』などにも現れる歌枕の地であるが、『標註』では『武蔵野話』を引用して入間郡堀兼村の可能性を示しつつ、『武蔵名所考』を引用して堀兼を称する井戸が入間郡内に多く存在し、比定が困難であることを示唆している。
  • やせの里について『西遊行囊抄』を引用し、上野国安中から相模国大磯に至る道に髙萩・根岸村があり、その左に堀金村・矢瀬村が並ぶと注記している。現代の郷土史では、堀兼村周辺の他、入間市豊岡・扇町屋・木蓮寺周辺に比定されている[90][91][92]
  • 佐西は高麗郡篠井(笹井)村(現在の狭山市笹井)に比定されている。
  • 十玉坊については入間郡難波田村(現在の富士見市下南畑)にあり、大塚からは二里離れていること、各種文書から十玉坊が水子村(現在の富士見市水子)、清戸芝山(現在の清瀬市内)など移転をしていたことを注釈に記している。現代の各種研究では、川越市大塚や富士見市下南畑の他、志木市内の大塚(旧町名)に比定する説もある[93]
  • 最勝院は木野目村(現川越市木野目)にあったが天台宗であることから、難波田村山形の西蔵院の可能性についても注釈で触れている。
  • すぐろ(須黒・勝呂)は入間郡須黒(現在の坂戸市勝呂)を挙げつつ、新座郡膝折村と大和田村の間にも須黒という地名があったことを注記している。
甲斐岩殿の明神→猿橋はつかりの里柏尾寺→花蔵坊→塩の山・さしでの磯→武田館→祖母の比丘尼の寺→笛吹川→花鳥の里→七覚山吉田(2月15日)
  • 岩殿は都留郡岩殿村(現在の大月市賑岡町岩殿)に比定され、当地の岩穴に安置されていた七社権現[94]について注釈がある。
  • 花蔵坊については注釈が無いが、現代の研究では石和にあった花蔵院(華蔵院、慶応4年に洪水で流失)と考えられている[95]
  • さしでの磯(差出の磯)について『甲斐志略』を引用し「山梨郡崗山の笛吹川の河潭へ差出たるところを云う」と注記している。塩の山、さしでの磯ともに古今集で詠まれた歌枕であり、歌枕としては能登の志乎神社周辺に比定する説もあるが、『標註』ではいくつかの傍証を踏まえて甲斐説を支持している。
  • 武田館、祖母の比丘尼の寺については場所の注釈がない。道興は当地で武田信昌と面会しており、この時代の武田館は石和にあったことから、それぞれ石和館および成就院に比定する説がある[96]
  • 花鳥の里は八代郡竹井村(現在の笛吹市八代町竹居)周辺に比定されている。
武蔵4かた柳→すくもの渡し
  • かた柳(片柳)は入間郡勝呂郷片柳村(現在の坂戸市片柳)に比定されている。
  • すくも(須久毛)の渡しについては場所が特定できておらず、現代の研究では須久毛氏の勢力範囲から羽生市川俣または岩槻市笹久保(すくもという小字があった)に比定する説がある[97]。後者の場合、片柳をさいたま市見沼区に比定する説もある[98]
上野2利根川(3月2日)→青柳佐貫の庄舘林
下野2ちつか→うへのの宿佐野宇都宮(慈心院)→志ほのやきつね川→朽木の柳→稲澤の里黒川余笹川
  • 「ちつか」については庚塚(かちづか)のことかと推量しているが、比定はできていない。現在の館林市には千塚町がある[99]
  • 慈心院は宇都宮二荒山神社の神宮寺であったが、宇都宮氏の滅亡とともに廃れた[100]
  • 朽木の柳は那須の芦野から陸奥白河の間にあったと注釈にある。芦野には遊行柳があり、別名朽木の柳とも言われる[101]
陸奥白河二所の関→うたた寝の森→八槻→人忘れずの山(矢つぎの別当坊)→田村あさかの沼あさか山阿武隈川→志ほの山→衣の関武隈末の松山→実方朝臣の墳墓→関の清水→みやぎ野→おくのほそ道→松本→もろをか→赤沼→西行かえり松島→まがきが島→塩かまの浦→つつじが岡→轟の橋→名取川→(帰路)
  • うたた寝の森は「白河城東鹿島社の側にあり」と注釈にある。現在も神社の飛び地として保存されている[102]
  • 「人わすれずの山」は「白河城棚倉城との間にあり今新地山と云う」と注釈にある。矢つぎの別当坊については注釈がない。
  • 志ほの山について一丁を割いて考察しているものの比定には至っていない。船岡城そばの四保山に比定する説があり、この場合四保山→一関→武隈は行程として無理があることから、衣の関を柴田町槻木白幡付近(衣関山東禅寺がある)に比定される[103]
  • 藤原実方の墓所について、名取郡塩手村(現在の名取市愛島塩手)にあると注釈にある。
  • 関の清水については十分な考察がない。現代の研究では、実方墓所から宮城野への経路上の地として仙台市太白区越路付近に比定する説がある[104]
  • おくのほそ道(奥の細道)について、宗久の『都のつと』より「みちの国たがのこふになりぬそれよりおくのほそ道といふかたを」という一文を引用し、さらに本松山東光寺前の道が奥の細道であるという説も紹介している。その一方で、文献における「奥の細道」の初出として『続後撰和歌集』収録の「おもい信夫の奥の通い路」(粟田口忠良)という歌を挙げ、信夫郡よりも奥という以上は特定できないと締めくくっている。
  • 松本、もろをかについては全く注釈がない。吉田東伍はもろをかを利府とし、経由地として松本を岩切付近と比定している[105]
  • 赤沼は宮城郡赤沼村(現在の利府町赤沼)に比定している。
  • 途絶え(とだえ)が転訛してとどろきとなったという説、岩切周辺にあったという説を注釈に書いている。

脚注

参考文献

外部リンク

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