藤沢子山
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享保16年(1731年)5月27日[1]藤沢長達の長男として生まれた[3]。寛延元年(1748年)[4]父に従い江戸に出て、入江南溟に古文辞学を学んだ[3]。その後京都に上り、吉益東洞・山脇東洋に医学を学び[3]、龍草廬と交流した[5]。父が菰野藩に出仕し、菰野に赴任すると、これに従い、文化2年(1805年)4月医官となった[2]。
母が高齢になると帰郷し、医業を営みつつ、西川恒山・中山漸廬と儒学を研鑽し、古文辞学を批判した[3]。天明2年(1782年)6月佐渡奉行石野広通に学才を認められ、奉行所書院で月3度四書を講義し、後の先例となった[3]。
晩年相川から湊に移った[6]。寛政10年(1798年)6月21日68歳で死去し[3]、加茂郡籠米村(佐渡市両津秋津)大蔵九郎右衛門屋敷跡に葬られた[1]。諡号は文穆先生[1]。
著書
逸話
ある佐渡奉行が骨董品を安値で購入し、「とても安価だった。まことに掘り出し物だ。」と子山に自慢した。子山は「値段は物と釣り合ってこそ買うべきである。法外な安値ばかり求めるようでは、遂には盗品をも買うようになる。人の上に立つ者のすることとは思えない。」と諌めた[3]。