藤沢朋斎
日本の囲碁棋士 (1919-1992)
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経歴
先番無敵
神奈川県横浜市に生まれ、祖父重五郎(藤沢秀行の父)などの影響で碁を始める。1930年に姉とともに日本棋院院生となり、1933年入段。本因坊秀哉に可愛がられたとされる。1934年に國民新聞の若手棋士による勝ち抜き戦で、10人抜きを達成。1938年四段時に、東京日日新聞主催の対六段戦で5戦全勝。1942年六段で、前年からの雁金準一と呉清源の十番碁に続いて、雁金の率いる瓊韻社の渡辺昇吉六段と十番碁を打ち、3連勝して打ち切りとなった。この頃は堅実な碁風で、黒番不敗とも言われた。
この頃、高川格、坂田栄男とともに日本棋院若手三羽烏と呼ばれた[3]。
1943年には呉清源八段と十番碁(第一次)を行い、藤沢定先で7局目まで3勝4敗であったが、3連勝して6勝4敗とした。1943年から始まった第3期本因坊戦予選では七段で出場し、八段級予選で4戦全勝して上位3人による挑戦者決定リーグに入るが、岩本薫七段に敗れる。次いで橋本宇太郎との十番碁が行われるが、3局までで中止。1946年に木谷実、岩本薫、橋本宇太郎、藤沢による四強豪戦に出場するが、途中で中止となる。戦後、1946年七段時に「新夕刊」紙で木谷実八段との三番碁を打ち、1勝2敗で敗れた。同年八段。
1947年に囲碁新社メンバー(前田陳爾、坂田栄男、梶原武雄、山部俊郎ら8名)が日本棋院から独立後、1948年に残った若手棋士たち(杉内雅男五段ら9名)と黎明会を結成。会員はその後12名、続いて囲碁新社メンバー(前田陳爾、坂田栄男、梶原武雄、山部俊郎ら8名)が日本棋院復帰すると合流した。三段から八段まで全員が互先4目半コミ出しで対局するという仕組みで、棋譜は東京日日新聞に掲載されたが、1950年に東京日日新聞が毎日新聞に合併されて解散した。
九段昇段・十番碁
1949年に、大手合で九段に昇段。この時、関西棋院の橋本宇太郎八段から争碁が申し込まれたが、実現しなかった。またこの時期、呉清源は十番碁で橋本宇太郎、岩本薫を先相先に打ち込み、高段者総当たり十番碁の成績により1950年に九段に推挙され、史上初めて同時に二人の九段が存在することとなった。
1951年10月1日から毎日新聞主催で呉清源とのコミだしでの四番碁が行われ、4連敗する[4]。同10月20日から、読売新聞主催で呉清源との第2次十番碁が開始され、2勝7敗1持碁で先相先に打ち込まれる。続いて1953年に呉清源と第3次十番碁を打ち、先相先で開始して6局目までで1勝5敗となり、定先に打込まれた。この敗戦の責任を取って藤沢は日本棋院を脱退した。
1954年からの橋本宇太郎との十番碁にも敗れる。1957年に朋斎と改名。同年本因坊戦で高川秀格に挑戦したが、2勝4敗で敗れる。1959年に日本棋院に復帰。この後も十段戦優勝など各棋戦で活躍。1992年4月に現役引退。
生涯成績1114局642勝469敗3持碁(勝率5割7分8厘)
タイトル歴
他の棋歴
- 十番碁など
- 対呉清源十番碁(第一次)1942-47年 藤沢 6-4 呉(藤沢先)
- 対呉清源四番碁 1951-52年 藤沢 0-4 呉(互先4目半コミ出し)
- 対呉清源十番碁(第二次)1951-52年 藤沢 2-7-1 呉(互先、第9局まで呉6-2-1ジゴで先相先に打ち込まれる)
- 対呉清源十番碁(第三次)1952-53年 藤沢 1-5 呉(藤沢先相先、第6局まで呉5-1で先に打ち込まれて打ち切り)
- 対橋本宇太郎十番碁 1954-55年 藤沢 3-7 橋本(互先、第6局まで橋本5-1で先相先に打ち込まれる)
- 本因坊戦 挑戦者 1957年
- 十段戦 挑戦者 1968年
- 王座戦 挑戦者 1963年
- NHK杯テレビ囲碁トーナメント 準優勝 1955、57、60、67、69年
- 早碁選手権戦 準優勝 1969、71、73年
- 旧名人戦リーグ14期、本因坊戦リーグ13期
- 大手合第二部優勝 1933年後期、34年後期、第一部優勝 1937年前期、39年前期、40年後期、47年前期、49年前期
棋院理事
日本棋院において、1948-50年に棋士理事、1969-72年に政務理事、1975-78年には実務理事として編集と海外を担当して海外への棋士派遣を活発に行った。
受賞等
家族
藤沢秀行名誉棋聖は年下の叔父(母の弟[5])、小島高穂九段は甥(姉の子[5])、藤澤一就八段は従弟、藤沢里菜七段、藤沢ななみは従姪にあたる。
また、岳父にあたる奥山伍鹿は、日本棋院の専務理事をつとめた[6]。