藤瀬史朗
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桜宮高から、大阪体育大学に進学し硬式野球部に入部。阪神大学野球リーグでは在学中2回の優勝を経験するが、関西六大学野球リーグへの昇格はならなかった。進学後もプロを目指すつもりはなく、アマチュアの指導者として教員免許の取得を目的としていた。高校時代までは内野手、大学で外野手に転向した。
学生時代は一貫して野球部に所属しており、大学で陸上部に所属していたというのはあくまで“ネット上の噂”として本人が否定している[1]。ただし、足の速さを買われて中学生時代に陸上競技の大会へ出場したことがある。
大学4年次の1975年、目指していた教員採用試験では不合格となったが、その時たまたま拾った新聞に載っていた近鉄バファローズの募集広告で入団テストの実施を知り、当座の就職先確保と元来近鉄ファンでもあったことから「プロ野球選手が見られるかもしれない」という興味本位の理由で受験したところ、1次テストの50m走であまりに足が速かったために2次の打撃・守備テストの結果を待たず合格、ドラフト外で入団した。
1976年はファーム暮らしに終わるも、二年目は二軍で盗塁を稼いでいた所西本幸雄監督に一軍招聘され、以後は足のスペシャリストとして活躍。外野手として登録されていたが、代走で出場する機会が圧倒的に多かった。実働7年間の選手生活で117盗塁を決めているが(盗塁失敗は7年間で28であり、盗塁成功率は80.7%という高率である)[2]、うち代走で決めたものが105を数え、2014年に読売ジャイアンツ所属の鈴木尚広に抜かれるまで通算代走盗塁数のプロ野球記録となっていた。緊迫した試合終盤での代走起用がほとんどで相手バッテリーの警戒も強い中、1979年は27盗塁成功で盗塁死3と成功率90%という驚異的な数字で球団創設以来の初優勝に貢献した。年間代走盗塁数25(1979年)、同一カード連続盗塁成功数33(対阪急戦)といったプロ野球記録も持っている。
1980年には外野手として22試合に先発出場、同年は打率.241、3本塁打を記録している。高校時代の経験から外野以外の二塁手や三塁手でのスタメン起用にも応えた。
1979年の日本シリーズ第7戦のいわゆる「江夏の21球」の場面では羽田耕一の代走として登場。二盗を決め、相手捕手の悪送球を誘って三塁へ進塁するも、石渡茂のスクイズが外された際に三本間に挟まれアウトになっている[3]。
1984年に引退してシーズン途中からファームを指導。
引退後は、近鉄で走塁コーチを11年間務め、1988年のいわゆる「10.19」の試合では一塁ベースコーチとしてグラウンドに立っていた。
1996年から9年間フロント入り。管理部次長、管理部長と順調に出世していた。
2004年末のオリックスとの合併に伴い新球団の用意したポストを断り、近鉄一筋を通して退団。
本人によれば、選手時代はプロの激しい練習について行くのが精一杯の状態でレギュラー出場は叶わず、コーチとしては「10.19」などの激闘を経験し、さらにフロントではプロ野球再編問題に当事者として直面するという巡り合わせで身も心も疲れ果て、とても新球団で仕事を続ける気にはなれなかったという。
その後は、母校である大阪体育大学などを運営する学校法人浪商学園の運動部強化センター部長に転身した。また、大阪体育大学硬式野球部のOB会長も務めている。