藤牧義夫
1911-1935, 版画家
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略歴
群馬県館林市出身[2]。藤牧家は代々館林藩に仕えた士族だが[3]、父は明治維新後永年教職にあり、小学校長も歴任し、「三岳」と号し絵や書をよくした。2歳で実母を、13歳で父親を亡くす。父没後に家族で日用雑貨小売を自宅で始め、その二軒隣りに、七歳年上の藤野隆秋(天光)が住んでいた。
義夫は小学校時代から美術が得意で周囲を驚かせた。1927年に上京後[1][4]、日本橋の染織画工・佐々木倉太に弟子入りし[1]、商業図案などを学ぶかたわら、ドイツ表現主義の影響を受けつつ独自の版画様式を確立。全4巻・全長60メートルに及ぶ「隅田川絵巻」は代表的作品である。24歳のとき東京で失踪[2]。墓は館林市朝日町法輪寺[5]。国柱会の信者でもあり、同会本部を描いた作品「申孝園」も遺している[6]。
失踪
家族
年譜
- 1911年(明治44年) 1月19日、群馬県邑楽郡館林町1006番地(現館林市城町)に、父巳之七、母たかの末子(4男)として生まれる[8]。父は52歳、母はその後妻で、実家の裏手には田山花袋の生家があった[7]。
- 1913年(大正2年) 母たか亡くなる[8]。
- 1917年(大正6年) 館林尋常小学校に入学[9]。
- 1919年(大正8年) 父、亡母たかの実妹まさと再婚[8]。
- 1923年(大正12年) 小学校尋常科を卒業、高等科に入学[9]。
- 1924年(大正13年) 9月、父亡くなる[9]。
- 1925年(大正14年) 小学校高等科を卒業[9]。
- 1926年(大正15年) 父の伝記を書いた自家製本『三岳全集』を完成[10]。
- 1927年(昭和2年) 『三岳画集』を完成[10]。4月、兄・秀次が死去する[10]。その後上京[4]。
- 1928年(昭和3年) 銀座の植松図案工房に就職[4]。師匠の佐々木倉太(1892年函館出身)は独学で貴金属装身具の図案描きとなり、白馬会などで研鑽し、当時東京を代表する画工として知られていた[11]。
- 1931年(昭和6年) 第9回春陽会展に「ガード下のスパーク」(木版)を出品[1][4]、第1回日本版画協会展に「夜景」「請地の夜」(木版)を出品[1]。
- 1932年(昭和7年) 小野忠重宅で開かれた新版画集団創立打ち合わせ会に出席[1][4]、機関誌『新版画』第1号に「朝」(木版)を発表[4]。
- 1933年(昭和8年) 第14回帝展に、「給油所」(木版)を出品し入選[1][2][4]。
- 1934年(昭和9年) 館林に帰郷し城沼を絵巻風に描く(所在不明)[12]。田中智学が主宰する国柱会の精華会のメンバーとなる[1]。「隅田川絵巻」を制作(翌年完成)[12]。
- 1935年(昭和10年)
主な作品
- 『朝』1932年
- 『しねま』1933年
- 『赤陽』1934年
- 『井の頭風景』1934年
- 1931年、「ガード下のスパーク」(木版)
- 1931年、「請地の夜」(木版)
- 1932年、「朝」(木版)
- 1933年、「給油所」(木版、館林市第一資料館所蔵)
- 1933年、「白鬚橋」(木版)
- 1933年、「銀行について」(多色木版)(宮城県美術館所蔵)
- 1933年、「城沼の冬」(群馬県立館林美術館所蔵)
- 1934年、「赤陽」(木版)(東京国立近代美術館所蔵)
- 1934年、《つき》 多色木版(神奈川県立近代美術館)
- 1935年、「隅田川絵巻」全巻(館林市第一資料館所蔵)
展覧会
- 1935年6月25日-27日「藤牧義夫版画個人展」神田・東京堂画廊
- 1978年1月「藤牧義夫遺作版画展」銀座・かんらん舎
- 1987年「1930年代の版画家たちー谷中安規と藤牧義夫を中心として」神奈川県立近代美術館
- 1995年「生誕85周年記念ー藤牧義夫 その芸術の全貌」館林第一資料館
- 2011年「生誕100年 藤牧義夫展」群馬県立館林美術館、神奈川県立近代美術館