都統・マムピの孫。1720年に内閣中書となり、その後御史・給事中を経て奉天府尹に昇進した。乾隆年間には広東巡撫、両広総督代理、吏部侍郎を歴任し、地方行政や開墾政策の推進に携わった。1759年に湖広総督となり、官僚の収賄や職権乱用を積極的に弾劾した。その後再び両広総督に転じ、冤罪事件を再審して真相を明らかにしたことから高い評価を受け[1]、太子太保を加授された。1764年に閩浙総督へ転任。翌年には台湾淡水地方の先住民蜂起の鎮圧を指揮した。1768年、入京して乾隆帝に朝見した後に病没し、「恪勤」の諡号を贈られた[2]。
弟の明山および子の富綱はいずれも総督に昇った。