蟠龍寺 (岐阜県東白川村)
From Wikipedia, the free encyclopedia
創建時期や由緒は不詳であるが、当初は飛騨国益田郡御厩野にあった真言宗の大威徳寺の末寺として開創されたと伝わる。
1615年(元和元年)、初代苗木藩主の遠山友政は、苗木城の傍らに菩提寺として雲林寺を開基した。
遠山友政は、その後、領内に雲林寺の末寺を創建したり、従来から存在した他宗派の寺院を臨済宗妙心寺派に改宗して末寺とした。
1665年(寛文5年)、蟠龍寺は改宗されて雲林寺の末寺となった。
檀家は、大沢・久須見・柏本・下野・宮代・中屋・須崎の7集落で200戸ほどあった。
その後の経緯は、古記録が処分されたため不明である。
1868年(慶応4年)、神仏分離令が公布されると苗木藩では廃仏毀釈の風潮が高まって来た。
1868年(明治元年)5月29日、飛騨国益田郡の東泉寺から入寺して11世となっていた祖恩が示寂したため、恵那郡姫栗村の長増寺から全理が12世として入寺した。
ある日、村の若者が、いたずらで「穢れの者、これより外に出るべからず」と大書した高札を蟠龍寺の門前に建てた。
全理は勝気な僧であったため「俗人の輩、みだりの聖境に入るべからず」と逆襲したが、あれやこれやで村方から反感が募り、全理が寺を去ったことにより、1870年(明治3年)9月27日に、苗木藩から廃寺と還俗の申し渡しを受ける前に、既に蟠龍寺は終わっていた。
廃寺となった際の所有地は、宅地は一反歩ほどであったが、寺有田地控高が、およそ20俵。山林も大分あった。建物は縦6間に横13間で土蔵もあった。
本堂は飛騨高山へ売却し、祠堂にあった位牌等は焼却した。什器、諸道具、土地等は、地元の世話方であった、今井虎吉・今井浅平・今井亀吉・小池半兵衛・今井丹右衛門の5人が買受け、土地代の内で15両を蟠龍寺の永代祭祀料として5人で分けて、その残りは檀家であった7集落に分配した。
仏像は、東泉寺へ移されたとも云われている。大般若経100巻の内の50巻と過去帳8冊は、苗木藩の役人の目を逃れて、柏本村の神職で元安正院こと安江五郎正朝の家へ移した。
1887年(明治20年)頃、加茂郡野上村の正伝寺の先の住持が有志と共に、蟠龍寺の再興を企図して、縦二間・横三間の小堂を建てたが、暴風によって倒壊し、遂に目的が果たせず終わった。
歴代住持の墓は横倒しにされ、寺の大門前にあった六字名号碑は、倒されて放置されていたが、
1918年(大正7年)に五加鉱山の監督として大阪から出張で来ていた安川憲の発願によって、歴代住持の墓石とともに立て直された。これらの墓石が寺の雰囲気を僅かに漂わせている。
敷地面積は1337平方メートル、寺跡は1202.6平方メートル、付属の建物跡は59.3平方メートルと、75.5平方メートル。参道の幅は平均3メートル、延長は約50メートル。
現在は寺境に石積が残っており、建物の跡は水田となっている。
1976年(昭和51年)6月に、東白川村の史跡に指定された。