衛温 中国の三国時代の呉の将軍(? - 231) From Wikipedia, the free encyclopedia 衛 温(えい おん、? - 231年)は、中国三国時代の呉の将軍。 生涯 黄龍2年(230年)春、孫権は衛温と諸葛直に武装兵1万を率いさせ、夷洲[1]・亶洲[2]へ向かわせた上で、未知地域の調査と現地民との交誼を行なう事を計画した。陸遜と全琮が反対したが、孫権の命により計画は実行に移された。 約1年後、衛温と諸葛直は帰国したが、亶洲へは遠すぎたため到達できなかった。また兵の八割から九割を疫病で失い(『呉主伝』)、成果は夷洲の現地民を数千人連れ帰っただけであった。衛温と諸葛直は、詔に背いて目的が果たせなかったとして、二人とも獄に繋がれ誅殺された。 脚注 [1]夷洲は沈瑩の『臨海水土異物志』に記述がある。「夷洲は臨海郡の東南二千里にあり、土地に霜や雪がなく、草木も死なない。四方は山と谷である。人が皆、髪を剃り、耳朶に穴を開けているが、女性は耳に穴を開けない。土地が肥沃で、元から五穀(麻、キビ、アワ、麦、豆)が生えていて、また魚肉も多い。犬は尾が短く、のろの尾みたいである。この異民族の舅・姑・子・嫁は一つの大きな寝床で眠り、ほとんどお互いを避けようとしない。土地に銅鉄があるが、ただ戦闘においてシカの角を矛として使い、摩礪青石で矢じりをつくる。生の魚肉を取り、大きな瓦器の中に塩を入れ混ぜて蓄え、一ヶ月と数日を経て、それをご馳走と思い食べる。」 [2]亶洲は日本の本州や種子島などの説がある。秦の時代、徐福は始皇帝に不老長寿の薬を捜すことを命じられた。徐福は、童子・童女数千人を連れ亶洲に辿り着いたが、そのまま戻らなかった。時々、その子孫が会稽郡に来て商い事をしたりした。また会稽の人間が嵐に遭った時、偶然亶洲に辿り着くことがあったという。 参考文献 陳寿、裴松之注『正史 三国志』、井波律子・今鷹真・小南一郎 訳・解説(ちくま学芸文庫全8巻、1992 - 93年)、※呉書は6・7・8巻、小南一郎訳。この項目は、中国の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。表示編集 Related Articles