Wikiwand AI

鉄鋼業

粗鋼等を生産する産業 From Wikipedia, the free encyclopedia

鉄鋼業(てっこうぎょう)とは、粗鋼等を生産する産業のこと。製造業の一つ。

概要

鉄鋼業は第二次産業に分類される。産業の米と呼ばれ、土木・建築・自動車・鉄道・電気機械・造船などに欠かせない鋼材を生産する産業として、重工業を代表する基幹産業の一つとして発展してきた。

技術的には、大量に消費される銑鉄を生産する製鉄業と、成分調整を行い鋼を製造する製鋼業、二次加工業とに分類される。

製鉄業は鉄鉱石を還元して銑鉄を製造するもので高炉メーカーが代表であるほか、たたら製鉄や砂鉄銑メーカーもこの分類に含まれる。高炉を持つ製鉄所は転炉を備えて製鋼以降の工程を持つ銑鋼一貫製鉄所となっているものが多い。

製鋼業はアーク電気炉や平炉などを用いて銑鉄やスクラップ、合金鉄を溶解して成分調整を行い、普通鋼や特殊鋼を製造するメーカーである。なお、転炉は溶銑に含まれる炭素を燃やす高炉の附属設備であるため、転炉製鋼は単独の製鋼業として成立しない(また転炉での冷鉄源溶解法は銑鉄を得るもののため製鋼ではない)。製鋼業では特に電気炉で普通鋼を圧延して棒線や板を製造するものを普通鋼電気炉メーカーと呼び、特殊鋼のそれを製造するものを特殊鋼メーカー(更に材質・用途ごとにステンレスメーカーなどに細分化される)、素形材を鋳造や鍛造で製造するものを鋳鍛鋼メーカー(鋳鋼メーカーと鍛鋼メーカーに大別される)と呼ぶ。

二次加工業は上記のメーカーから銑鉄やスラブ、鋼塊などの半製品を購入して加工するメーカーである。銑鉄を溶かして鉄鋳物を製造する鋳物メーカー、スラブや鋼塊を圧延して鋼板を製造する単圧メーカーなどが該当する。

歴史

製鉄は紀元前に小アジアで始まったとされる。高炉製鉄は遅くとも一世紀には中国で始まっており、鋳鉄の製造に用いられたものの、日本では千年以上の歴史を持つたたら製鉄が明治時代まで中国地方を中心に栄え、その技術を移転する形で各地で鉄製品の製造が行われた。

近代鉄鋼業は、18世紀末のイギリスにおける産業革命期に発祥した。その後第二次世界大戦(1939年〜1945年)までは、イギリス・ドイツ・フランス・アメリカの4カ国が世界の鉄鋼生産の中心であった。

日本における近代製鉄業は、1854年の薩摩藩の集成館事業で建造された高炉からの出銑が最初であったものの、島津斉彬の死後に事業が縮小された。現代につながるのは1858年の盛岡藩の大島高任による釜石鉱山の鉄鉱石を活用した大橋・橋野高炉群と、1880年9月に操業を開始した我が国初の官営釜石製鉄所である。この製鉄事業は困難が続き、まず木炭供給の不足によりわずか97日で操業を停止した。木炭供給の問題を解決し、1882年3月に操業を再開すると、今度は技術的な問題が起こり再開後196日で再び停止[1]したことから、同年12月に釜石鉱山及び製鉄所の廃止が決定した。

その後、東京の田中長兵衛が廃止された鉱山と製鉄所を引き受け、48回の失敗の後、1886年ついに出銑に成功した。1887年7月に釜石鉱山田中製鉄所を設立して1894年には我が国初のコークス銑製造にも成功[2]してこの年の釜石製鉄所の生産高は日本全体の65%に達した。また1901年の官営八幡製鉄所操業開始の際には、釜石製鉄所より熟練の技師が派遣されている[3]。

一方、日本の製鋼業は兵器、特に砲の国産化を目的に導入が進められた。日本では江戸時代までたたら製鉄(銑押し法・鉧押し法のいずれも)で得られた鉄や鋼を選別した後に鍛錬・脱炭除去することで炭素量を調整していたために、均一な成分の銑鉄を得られず鉄製の大砲を製造できなかった。そこで江戸時代末期に反射炉を導入して攪拌精錬法(パドル法)による錬鉄の製造が行われるようになった(上記の大橋・橋野高炉群で製造された銑鉄も那珂湊反射炉に供給するためのものであった)。

明治に入ると鋼の時代になり陸海軍ともるつぼ製鋼から近代製鋼技術の導入を進め、海軍は1882年に東京築地の兵器局内に製鋼所を建設してるつぼ鋼の製造を始めた。民間でのるつぼ製鋼は1905年の米子製鋼所(後の米子製鋼)が最初である。

平炉製鋼法は1890年には大阪砲兵工廠に酸性平炉が導入され、海軍工廠がそれに続く形で平炉鋼の製造を開始し、1899年の日本鋳鋼所(1901年に住友鋳鋼場になった後の1907年に安治川口に移転し、後の日本製鉄関西製鉄所製鋼所地区)、1901年の官営八幡製鐵所、1903年の釜石鉱山田中製鉄所、1907年の日本製鋼所本社工場(後の日本製鋼所室蘭製作所)が続いている。日本での平炉鋼の生産は1961年に1,725万トンで最大となったものの、その後は転炉や電気炉へ転換して急激に減少し、1977年12月に東京製鐵岡山工場での操業停止をもって平炉の時代が終わった。

転炉製鋼法は普通鋼の製造のために導入され、1901年に官営八幡製鐵所にベッセマー転炉、1938年に日本鋼管川崎製鉄所にトーマス転炉が設置されたものの長らく平炉が中心であった。1958年の八幡製鉄への純酸素上吹き(LD)転炉の導入以降、高炉メーカーでの製鋼は急速に転炉に転換された。

電気炉製鋼法は1909年の長野県松本での土橋長兵衛(後の土橋電気製鋼所)によるものが最初で、 現代まで続くものは安来鉄鋼(後のプロテリアル(旧日立金属)安来工場、1899年設立の雲伯鉄鋼の祖業は和鉄・和鋼の共同販売であり、近代製鋼事業としては1910年開始で後発である)が1912年に奥出雲においてアーク電気炉による試験、1915年に松江で商業操業を開始している。

一方、二次精錬については開始時期を厳密に定めるのは難しい。一般的な高級鋼を製造する特殊鋼メーカーや鋳鍛鋼メーカーでは、精錬の酸化期と還元期で適合する炉材の耐火物が異なるために電気炉での酸化期精錬を行った後に取鍋精錬炉(LRF)で精錬を行っている。取鍋精錬炉やエレクトロスラグ再溶解精錬炉(ESR)といった装置ごとの導入時期は明白であるものの、例えば1929年創業の三菱造船長崎造船所電気製鋼工場(三菱製鋼長崎製鋼所を経て後の三菱長崎機工、現在は製鋼機能を持たない)では平炉を二次精錬に用いており、それより前も大阪砲兵工廠では酸性平炉と塩基性平炉、官営八幡製鐵所ではベッセマー転炉と平炉といった二次精錬がされてきたからである。

第二次世界大戦後は日本及びソビエト連邦の鉄鋼生産量が急増した。原料に乏しい日本では、原料や製品の輸送に便利な臨海地域に製鉄所を建設し、巨額の設備投資を実行して高い技術水準を達成、国際競争力を確立した。2000年以降は、中国・台湾・韓国・インドなど新興工業国が設備を拡張し、増産が著しい。

規模

世界全体では、18.1億トンの粗鋼が生産されている(2018年)。

世界の国別粗鋼生産量ベスト10(2018年)…1位中国9億トン、2位インド1億トン、3位日本1億トン、4位アメリカ0.9億トン、5位韓国0.7億トン、6位ロシア0.7億トン、7位ドイツ0.4億トン、8位トルコ0.4億トン、9位ブラジル0.3億トン、10位イタリア0.2億トン。

日本の鉄鋼業における従業者数は19.6万人であり、日本全体では1.04億トンの粗鋼が生産されている(2018年)。

日本の鉄鋼業は、主原料の鉄鉱石・原料炭を100%海外から輸入している。また、鉄鋼製品の国内物流(一時輸送量)としては、船による海上輸送が4,200万トン、トラック及び鉄道による陸上輸送が2,200万トンとなっている(2018年)。

人材育成

日本の鉄鋼業における人材育成は、主に一般社団法人日本鉄鋼連盟 が1962年兵庫県尼崎市に設立した産業技術短期大学を活用して行われてきた。

日本の鉄鋼業界には、「鉄鋼業自らが大学を設立して業界の技術者を養成するとともに、一般社会の優秀な青年の教育にも貢献していくことで、社会とともに鉄鋼業の繁栄を目指す」という壮大な理念がある。

産業技術短期大学は、鉄鋼業が一丸となって開設した「世界でも類例を見ない特色ある大学」であり、2年間で4年制大学レベルの技術者教育を行うことを目標に、4年制大学水準のカリキュラムが設定された。また、そのモデルとなるような施設設備と人材が用意された。

日本鉄鋼連盟は、産業技術短期大学で日本製鉄・JFEスチール・神戸製鋼所・プロテリアル・大同特殊鋼・日本製鋼所・愛知製鋼・東洋鋼鈑・トピー工業・中山製鋼所・三菱製鋼・新日本電工・中部鋼鈑をはじめとする鉄鋼各社の従業員を再教育して、将来を担う優秀な技術者を育成してきた。具体的には、「製造現場における知識創造と人材の多機能育成政策・綿密な能力開発策のひとつとして、企業内選抜を経て中堅技術者への昇進に結びつく産業技術短期大学への派遣を行う政策の実行」であり、このような人材育成形態(教育訓練形態)を「オフ・ザ・ジョブ・トレーニング・OFF-JT」という。

日本において、人材の確保・育成は鉄鋼業発展のための大きな課題であり、今後も産業技術短期大学を活用するなど、積極的に人材獲得・育成に取り組むものと見られる。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks