襄公 (宋)
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紀元前651年に宋公の位に即く。襄公には異母兄の公子目夷(字は子魚)がおり、襄公は位を目夷に譲ろうとしていたが、父の桓公に拒否され、宋公になった後に目夷を宰相の地位に就けた。
即位直後の喪が明けていない時から斉の桓公が主催する会盟に参加し、その後もたびたび会盟に参加した。襄公は私事よりも礼を重視する理想主義者であった。
紀元前643年に桓公が死去した。斉国内では後継を巡って内乱状態になる。これに対して襄公は会盟を開いて曹・衛・邾ら小国を引き連れ、かつて宋に留学していた縁がある太子昭を推し立てて斉へと赴き、内乱を収めて昭を斉公とした。これが孝公である。さらに会盟に来なかった滕の宣公を捕らえた。
紀元前639年、斉・楚と会盟し、諸侯の盟主となることを楚に認められた。この間、目夷は宋が諸侯の盟主となることは身の丈に合っていないので危険だと諌めていたが、襄公は聴かなかった。さらに襄公は楚・陳・蔡・許・曹を集めて会盟を行うが、この席で楚により監禁され、盟主としての面目をつぶされる。
翌年、襄公は屈辱を晴らすべく衛・許・滕などを引き連れて、楚の盟下にあった鄭を攻める。これに際しても目夷は諌めたが、襄公は聴かなかった。楚の成王は軍を発して鄭を救援に向かい、両軍は宋国内の泓水の畔で戦うことになる。