宋 (春秋)
From Wikipedia, the free encyclopedia
周によって滅ぼされた殷の帝辛(紂王)の異母兄微子啓が封じられた国であったという。ただし、『史記』宋微子世家によれば、微子啓の後継者は同母弟の微仲であり、微仲までは微の地を領土としていたと考えられる[1]。
国力はさほどでもなかったが、前王朝の王統に繋がる国ということで最高位の公爵が与えられていた。
襄公の時代に力をつけ、斉の桓公が死んだ後に諸侯を集めて会盟した。これを楚の成王は不快に思い、会盟にやってきた襄公を監禁した。一旦謝罪し解放してもらった襄公は雪辱すべく泓水(おうすい)で楚と決戦を行った。
楚軍が河を渡ろうとした時、これを好機と宋軍の宰相が攻撃許可を求めたが襄公は許可しなかった。また楚軍が隊列を整えているところを見て、宰相は再び攻撃許可を求めたがまたしても襄公は許可しなかった。結果、河を渡り終え隊列を整え終えた楚軍は宋軍を叩きのめし、宋は惨敗した(→泓水の戦い)。
後に「何故許可を出さなかったのか」と聞かれて襄公は「君子は人の弱みに付け込んで戦いに勝つような事はしないものだ」と答えたという。この話から身の程知らずのつまらない仁を宋襄の仁と呼ぶようになった。

泓水の戦いの後、晋の公子である重耳が宋に亡命してきた。重耳が逸材である事を見抜いた襄公は、敗戦後にもかかわらず重耳を大いにもてなした。この恩を重耳は忘れず、後に晋の君主になった後、宋が楚に攻められた時に大軍を発してこれを救援した。重耳の死後もこの関係は変わらず、どんなに楚に痛めつけられても宋は晋に対する友誼を捨てなかった。これにより楚が北上し、晋が押し返すという春秋時代中期の形が出来上がっていくのである。
襄公の後は斉・楚・晋といった大国の挟間で地位を低下した。文公から平公期には華元や向戌の活躍が知られるが、最後の王である康王は暴君であったために名声が低くかつての夏の桀になぞらえ桀宋と呼ばれる有様であった。そのため、紀元前286年、斉によって滅ぼされた。