「西園軍」の特徴としてまず挙げられるのは、霊帝直属の部隊であるということである。そして、『後漢書』巻八「霊帝紀」や、巻六十九「何進伝」に書かれているように、霊帝は自らを「無上将軍」と称した。そもそも、皇帝が将軍を名乗るということは前代未聞であった。鎌田重雄はこの「無上将軍」という称号について、黄巾の乱の首謀者である張角とその弟張宝、張梁がそれぞれ「天公将軍」「地公将軍」「人公将軍」と称したことに対する対抗措置であるとしている[1]。
西園八校尉の筆頭である蹇碩に関して、同じく『後漢書』巻六十九「何進伝」に
帝蹇碩壮健にして武略有るを以て、特に之を親任し、以て元帥と為し、司隷校尉以下を督せしめ、大将軍と雖も亦た領属せしむ。
という記述があることから、この蹇碩は大将軍よりも位が上位であるということがわかる(大将軍と雖も亦た領属せしむ)。蹇碩が実際に大将軍や司隷校尉といった大権を持つ官に対して監督権を行使できたかは不明で、またこの権限をすぐに失ったとも思われる。
石井によって指摘されているが、西園軍の維持費は国費ではなく霊帝の私費であり、売官によって得た銭があてられていた。しかし、あくまで一部であるとともに、売官、売爵それ自体が、軍の維持目的に設置されたものではない。
これらは霊帝のいくつかの改革の一つとして捉えられる。日本でも中国でもそういった理解がされることが多く、日本では先の石井、上谷のほか、窪添も一連の改革の一つとして把握している。
実際に軍事行動があったのは下軍校尉鮑鴻のみであり、三軍のうち監督としての上軍、実質的に行動する下軍と、機能は分化していたようである。なお、石井が指摘していることであるが、中軍のみ(名称は)後世に継承されることになる。
范曄の『後漢書』で突然、鮑鴻が下獄死したという記事が出て、またその理由が記されていないため、鎌田はそれ以前の軍事行動で失敗したからではないかと述べているが、それは完全な誤りである。軍事行動自体は成功しているが、汚職によって罪にあてられたにすぎない。
また近年、上谷はこの西園軍の「継承」を切り口として董卓政権を把握しようとしているが、その妥当性については今後の研究によるであろう。