西方鄴
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定州都指揮使の西方再遇の子として生まれた。軍中にあって、勇気と力量で知られた。20歳のとき、黄河を南渡して後梁に遊歴したが、任用されず、河北にもどった。晋王李存勗に仕えて孝義軍指揮使となり、その征戦に従っていずれも功績を挙げた。後唐の同光3年(925年)、曹州刺史となり、曹州の兵を率いて汴州に駐屯した[1][3]。
同光4年(926年)、李嗣源が魏州から黄河を南渡し、荘宗(李存勗)が汴州に行幸した。汴州節度使の孔循は異心を懐いて、北門に李嗣源を迎え、西門に荘宗を迎え、先にやってきた者を入城させようと図った。西方鄴は荘宗が後梁から降った孔循を殺さなかった恩義があるのに、孔循は李嗣源を迎えようとしているとして、孔循を責めた。孔循は答えなかった。西方鄴は孔循と争っても無駄と察すると、石敬瑭の妻が李嗣源の娘で、ちょうど汴州にいたことから、彼女を殺して人心を固めようとした。孔循がその陰謀を察知して、彼女をかれの家にかくまったので、西方鄴は手が出せなかった。李嗣源が汴州に到着すると、麾下の兵500騎を率いて西に荘宗を迎え、汜水で会見し、嗚咽して涙を流した。荘宗もまたすすり泣き、李嗣源の兵を先鋒とした。荘宗は汴州の西にいたったが、入城できず、洛陽に帰って興教門の変で殺害された。天成元年(同年)、明宗(李嗣源)が洛陽に入ると、西方鄴が馬前で死を請うたので、明宗はこれに感心して許した[1][4]。
天成2年(927年)、荊南の高季興が叛くと、明宗は山南東道節度使の劉訓らを招討に派遣し、剣南東川節度使の董璋を西南面行営招討使とした。西方鄴は夔州刺史に任じられ、董璋を補佐し、兵を率いて三峡に進出した。劉訓らは功績がなく左遷され、董璋は出兵しなかったが、ひとり西方鄴は夔州・忠州・万州を奪取した。夔州に寧江軍が置かれると、西方鄴は寧江軍節度使に任じられた。さらに帰州を奪い、しばしば荊南の兵を破った。西方鄴は法を守らないことが多く、判官の譚善達がたびたびかれを諫めた。西方鄴は怒って、譚善達が人の金を受け取ったと告発させ、獄に下した。譚善達は屈服せず、西方鄴を激しく非難しながら獄中で死んだ。西方鄴は病に臥せり、譚善達の祟りといわれた[5][4]。天成4年(929年)5月8日、夔州で死去した[6]。