西角井正慶
From Wikipedia, the free encyclopedia
1900年、埼玉県北足立郡大宮町大字高鼻(現・さいたま市大宮区高鼻町)に生まれる。1918年、私立埼玉中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)卒業。1922年、國學院大學国文科を卒業[2]。
卒業後、埼玉県立浦和高等女学校(現・埼玉県立浦和第一女子高等学校)教諭となる[2][3]。1926年、國學院大學神職養成部講師。1928年、國學院大學講師となり、1935年同大学教授。1954年から1958年まで文学部長。1948年、「日本芸能史に於ける鎮魂要素」を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得[4]。
1959年、国際宗教学会アジア・アフリカ・グループ日本委員会委員。1960年、神道宗教学会会長。1965年、折口博士記念古代研究所所長。
受賞・栄典
- 1967年:紫綬褒章受章。
西角井家
エピソード
- 愛称は「角さん」。
- 西角井は代々「正」の字を受け継いでいる。子供たちも、正大(長男)・正彦(次男)・正文(三男)である。ちなみに、長男の西角井正大は実践女子大学教授として民俗芸能を教えた。立教大学教授・宗教学者の藤田富雄は女婿。
- 大宮尋常小学校時代は泣き虫だったらしい。中学校時代は陸上短距離走の選手であった。
- 民俗学や作歌を通じて折口信夫に可愛がられた。折口は西角井のためわざわざ東京女子高等学園の作歌の講師となり、後にその職を西角井に譲った。新任講師紹介の際、折口に褒められすぎて教壇から転がり落ち、女生徒たちから笑われたという。
- 魚嫌いの肉好きで、特に生魚が苦手であった。神官にならなかったのも、神前に供える生魚で気分が悪くなるためである。ただしサンマ、塩鮭、くさやなどは口にした。晩年はマグロの赤身、鯛の刺身までは口に出来るようになった。
- 家が茅舎であったためか、火の用心についてはうるさかった。
- 折口の影響で「アララギ」に入会し、見沼冬男のペンネームで和歌を詠んでいる。ただし、大正7年(1918年)から大正10年(1921年)までが活動のピークで、戦争中に見沼冬男は自殺したことになり、戦後は戯れ歌しか作らなかった。ただ明治神宮の献詠歌撰者は戦後も長く務めた。