西郷吉兵衛
日本の江戸時代の武士
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経歴
文化3年(1806年)西郷隆充の長男として誕生した。文化11年(1814年)8月28日、弟の西郷小兵衛[注釈 1]とともに藩主島津斉興に初御目見する。文政10年12月7日(1828年1月23日)、長男・小吉(のちの西郷隆盛)が誕生する。
天保5年(1834年)1月26日、通称を九郎と改める。天保6年(1835年)6月19日、弟・小兵衛が大山綱毅の養子となる。弘化2年(1845年)11月15日、御勘定方小頭となる。弘化4年(1847年)6月20日、父の隠居により家督を相続する。なお、「詳説西郷隆盛年譜」では4月に家督相続届けを出し、5月15日許可とある。また、当時の石高は47石余り。嘉永2年(1849年)3月15日、相続の御礼をなし、吉兵衛と改める。
嘉永2年12月3日(1850年1月15日)お由羅騒動。赤山久晋の死を見届ける。嘉永5年(1852年)7月18日:父・隆充死去。嘉永5年(1852年)9月27日、死去。当時の石高は41石余り。墓所は曹洞宗松原山南林寺の墓地、のち常盤町のほうに改葬。
家族・親族
エピソード
- 吉兵衛はお由羅騒動で赤山靭負の介錯をしたという説があるが、これは誤りで、実際は剣豪家の加藤新平に頼んだという説もある。この誤説の原因は祖父の吉兵衛(諱は不明)が大山貞政の門人として当時の城下では名が知られていたらしく、このことによると思われる。
- 吉兵衛は日置島津家の家来の四本氏が母のため、日置島津家とその庶流赤山家の家政上の世話をする御用人だった。赤山靭負の遺言を聞き、臨終を見届けて一切の処置をとった。また、赤山の血衣を持ち帰って吉之助に見せ、涙ながらに赤山の最期を語ったという。
- 「西郷隆盛年譜」によれば、弘化4年に吉兵衛は吉之助とともに、薩摩郡水引郷(現在の薩摩川内市)の油問屋の板垣家を訪ね、100両借金した。翌年、板垣家の息子板垣休右衛門が西郷家を訪れ、さらに100両、合計200両を借りたという。