西鉄特急脱線事故
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 西鉄特急脱線事故 | |
|---|---|
| 発生日 | 1975年(昭和50年)3月1日 |
| 発生時刻 | 19時6分頃(JST) |
| 国 |
|
| 場所 | 福岡県福岡市南区平原(現・井尻3丁目) |
| 座標 | 北緯33度33分2.1秒 東経130度26分45.0秒 / 北緯33.550583度 東経130.445833度座標: 北緯33度33分2.1秒 東経130度26分45.0秒 / 北緯33.550583度 東経130.445833度 |
| 路線 | 大牟田線 |
| 運行者 | 西日本鉄道 |
| 事故種類 | 列車脱線事故 |
| 原因 | 第4種踏切での乗用車の立往生 |
| 統計 | |
| 列車数 | 5台(6両編成) |
| 死者 | 0人 |
| 負傷者 | 43人 |

西鉄特急脱線事故(にしてつとっきゅうだっせんじこ)とは、1975年(昭和50年)3月1日19時6分頃、西日本鉄道(西鉄)が運営する、西鉄大牟田線(現・天神大牟田線)の井尻駅 - 雑餉隈駅間で発生した列車脱線事故。
18時59分、西鉄福岡(現・西鉄福岡(天神))発大牟田行の下り特急1803列車(2000形2041編成、6両)は、約500名の乗客を乗せて西鉄福岡駅を出発した。その後、約85km/hで井尻駅を通過する際、前方にある井尻3号踏切(第4種、遮断機なし)西側より無停車で進入しようとしたライトバンが脱輪して立ち往生しているのを運転士が確認し、警笛を連続吹鳴すると同時に非常ブレーキを扱うが間に合わず、衝突した。衝撃によってライトバンは約50メートル先の畑まで飛ばされたほか、列車は左側に傾いて脱線し、架線柱をなぎ倒しながら約100メートル先の線路脇の民家3戸に突っ込んだ後、原型を留めたまま「く」の字に横転し止まった。
同じ頃、西鉄二日市発西鉄福岡行の上り普通列車が約90 km/h で事故現場に接近していたが、下り列車の脱線時に起きた高圧線のスパークを普通列車の運転士が約500メートル手前で発見し、急ブレーキをかけ事故現場の約50メートル手前で停車したことで二次災害を免れた。
事故直後に気を失っていた下り列車の運転士は、すぐに意識を取り戻した後、事故現場近くで停車していた上り普通列車の列車無線で指令室に救助要請を行った後、脱線現場で負傷者の救出を行った。停電により非常用扉のコックが動かなくなったが、車掌がこれに気づいて停電用ボタンを押したため、非常扉が作動し多くの乗客が脱出した。また、一部の乗客は半分に破れた連結部分の貫通幌から脱出した。
重傷者2人(うち1人はライトバンの運転手)、軽傷者41人(うち2人は乗客以外の公衆)を出した。
事故の影響
特急列車が脱線時に九州電力の高圧線に接触、これにより鉄塔が大きく傾いたため、福岡市博多区・同南区・大野城市・春日市の一部で約2時間にわたり停電が発生した。この停電で信号機が動作しなくなり、多くの道路で渋滞が発生した。
またこの事故で西鉄福岡 - 西鉄二日市間が不通となり、福岡バスセンターから代行バスによる代行輸送が開始されたが、週末の夜だったこともあり大混雑し、発車までに時間がかかった。
19時10分過ぎに、事故の第一報が西鉄福岡駅に入る。しばらくして利用客が改札口に殺到、列車が動かない理由を駅員に尋ねたが詳しい説明はなかった。その後事故発生から約50分後、事故を知らせる掲示が張り出され、バスによる代行輸送をするという案内がなされた。
復旧まで
西鉄は現場に事故対策本部を設置。日付が変わった翌日朝から復旧作業が開始された。事故の翌々日が国立大学の一斉入試日だったこともあり、作業は急ピッチで行われた。クレーン車4台が投入され、現場に散乱した事故車両の破片を撤去すると共に、切断した架線柱や曲がったレールも交換された。その後同日19時過ぎ、民家に突っ込んで横転していた先頭車両が線路脇の田んぼに移動された後、福岡駅と春日原駅から出た救援車両(同型車両)により、二日市車両基地へ牽引・搬入された。その後、事故から約26時間半後の3月2日21時30分に全面復旧した。
全面復旧に伴い、下り線は22時の福岡発大牟田行の特急列車より、上り線も同22時2分発の二日市発福岡行の特急列車より運転が再開された。下り線については事故現場を約25km/hで徐行運転する措置が取られたが、同日は上り8本、下り9本が運転した。
全面復旧に至るまで、同日は西鉄福岡 - 大橋、春日原 - 大牟田間で折り返し運転、大橋 - 春日原間はバスによる代替輸送を行った。
なお、事故車両(2041編成)は全車修繕・復旧されて運用に復帰したが、本事故での影響で老朽化が早く進行し、同型車の中では一足早く2001年に廃車されている。