観音寺騒動
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六角氏は六角定頼が当主(あるいは陣代)の時代、北近江の戦国大名であった浅井氏を事実上の支配下に置き、さらに室町幕府からも管領代の地位を与えられるなどして全盛期を迎えていた。定頼の死後、後を継いだ六角義賢は、畿内に一大政権を築きつつあった三好長慶と抗争して、中央政界での勢力を拡大しようとしたがこれに失敗。逆に六角氏の畿内における影響力は減退してしまった。そのうえ、定頼の死去を見て服属下にあった浅井氏が自立傾向を見せ始める。
永禄3年(1560年)8月中旬、義賢は大軍を率いて浅井氏を討とうとしたが野良田の戦いで浅井長政に敗れた。近江佐々木氏の家中問題も絡み、義賢の近江における権威は低下した。この前年に家督を子の六角義治に譲っていた義賢は、この敗戦を契機に出家する。また、この頃から義治の婚姻問題などで義賢と義治の対立が深刻化することになる。
跡を継いだ義治は、配下の種村道成(三河守)、建部日向守の両名に対し、重臣である後藤賢豊と後藤壱岐守(名は不詳)の父子の殺害を命令。種村と建部は主君を諫めたが聞き入れられず、永禄6年(1563年)10月1日、観音寺城に登城するのを待ち受けて殺害させた[1]。理由は諸説あるが、賢豊は定頼時代からの六角家中における功臣として人望も厚く、隠居した義賢からの信任も厚かった。また、進藤貞治(騒動当時には病没)と共に「六角氏の両藤」と称されるほどの宿老で、奉行人として六角氏の当主代理として政務を執行できる権限を有していたことから、賢豊の権力(及びその背景にある義賢の権力)と若年の当主・義治とが争った末に、当主としての執行権を取り戻すために暗殺したと言われている。
事件後
観音寺騒動は、六角氏の家臣団に衝撃を与えた。賢豊は前述したように重臣の筆頭格であり人望も厚かったから、この事件(義治が賢豊を討ち取った名目は無礼討ちとされていた)は、佐々木六角氏の家督問題と関係して六角家臣団の義治に対する不信を持たせることにつながった。そして、浅井氏が六角氏を攻める動きを見せたことで、浅井方につく者まで現れ始めた[2]。さらに義治はこの事件に不満を抱く永田・三上・池田・進藤・平井ら一部家臣団によって、10月7日に父と共に一時的であるが観音寺城を追われてしまった[3]。
その後、蒲生定秀・賢秀親子や三雲定持の仲介により、10月21日に義賢・義治父子は観音寺城に復帰することになった。だが、家督を六角義定(義治の弟)に譲ることや[4]、永禄10年(1567年)4月28日には「六角氏式目」に署名して、六角氏の当主権限を縮小することを認めざるを得なくなった。なお、後藤氏の家督は長男の壱岐守が父と共に誅殺されたため、次男の後藤高治が継いだ。