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観音寺城の戦い

1568年に生じた織田氏と六角氏の合戦 From Wikipedia, the free encyclopedia

観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角氏との間で行なわれた戦い。

概要 観音寺城の戦い, 交戦勢力 ...
観音寺城の戦い

観音寺城の平井丸虎口
戦争:攻城戦
年月日:永禄11年9月13日(1568年10月12日)
場所:近江国蒲生郡観音寺城
(滋賀県近江八幡市安土町)[1]
結果:織田軍の勝利
交戦勢力
織田軍
徳川軍
浅井軍
六角軍
指導者・指揮官
織田信長
浅井長政
神戸具盛
松平信一
六角義賢
六角義治
六角義定
戦力
40,000 - 60,000 不詳
損害
不詳 不詳
織田信長の戦い


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この戦いによって、戦国大名としての六角氏は滅亡したとみなされている[2]。

背景

永禄11年(1568年)7月13日、足利義昭が織田信長を頼るべく、越前の一乗谷を出発し、16日には信長の同盟者である北近江の浅井長政の饗応を小谷城で受けた[3]。

7月25日、義昭は信長と美濃岐阜の立政寺で対面した[3]。義昭は美濃に入ると、同月28日に多喜越中守に道中の警護を、服部同名中に道中の斡旋をそれぞれ命じ、上洛の準備に入った[4][5]。

信長もまた、かねてから上洛の準備を進めており、甲斐の武田信玄と和議を結び、背後の憂いを断っていた[4]。また、信長は大和の松永久秀とも連絡を取り合っていた[4]。

他方、義昭や信長の上洛への行動が本格化するなか、8月17日に三好長逸ら三好三人衆は近江の六角氏のもとに赴いた[6][7]。そして、三人衆は六角義賢と面会し、「天下の儀」に関して話し合い、味方に引き入れた[6][7]。

経過

9月7日、信長が尾張・美濃・伊勢の軍勢、及び同盟関係にあった三河の徳川氏の軍勢を率いて、美濃の岐阜から京都に向けて出発した[8][9]。義昭と歩調を合わせて、上洛の準備を整えてからの出兵であった[8]。

信長は近江を経由する形で京都に向かったが、ここに南近江を領する六角氏が立ちはだかった[9]。信長の進軍に対し、六角義賢・六角義治・六角義定の父子3人は居城の観音寺城に籠城した[10]。そして、居城の観音寺城、支城の箕作城と和田山城の防備を固め、信長との対決の姿勢を見せた[11]。

9月8日、信長は近江高宮に着陣し、先陣が愛知川に、後陣が摺鉢峠・小野宿に着陣した[8]。だが、六角勢が山に逆木をして道を塞いで妨害していたため、人馬が通れず、2、3日を費やした[8]。

その後、信長は浅井氏の城・佐和山城に入った。この時点で、信長の軍は尾張・伊勢・美濃の軍勢に加え、浅井長政の軍勢3千が加わったほか、三河の徳川家康が派遣した松平信一の軍勢1千も加わっていた。よって、その軍勢は4万から6万ほどの大軍となっていた[12]。

そして、信長は六角氏に「天下所司代」を約束して、投降するように呼びかけた[13][14]。だが、六角氏は三好三人衆と同盟していたため、これに応じなかった[15][14]。

なお、六角氏家老の蒲生賢秀は主君の義賢に対し、織田方が観音寺城・箕作城・和田山城に進軍していることから、まず観音寺城への攻め手を切り崩し、箕作城の軍と協力して攻撃すべきと進言した[11]。だが、義賢は箕作城と和田山城の堅固さを過信しており、賢秀の進言を退けた[11]。そのため、賢秀は観音寺城から退城し、信長と一戦交えて切腹するため、自身の兵を率いて居城の日野城に向かった[11]。

9月12日、信長は浅井氏の軍勢と共に、六角氏の兵が籠もる箕作城を攻めた(箕作城の戦い)[15]。この結果、13日丑の刻(午前2時頃)までに箕作城が陥落した[15]。また、時を同じくして、12日に六角方の和田山城も織田方に攻められたが、こちらは戦う前に開城し、城兵は皆逃げ去っている[16]。

同13日、信長ら織田軍は箕作城を攻め落とした勢いで、六角氏の居城である観音寺城にも攻めかかった[15][17]。だが、六角義賢・義治父子や城兵の多くは夜陰に乗じて甲賀郡に逃げていた[15][1]。そのため、織田軍は難なく城を攻略することが出来た[15]。

この攻撃により、六角氏の残党は城主が不在になっていたこともあって、降伏するに至った[15][1]。織田方は残党から人質を確保した上で、これまで通り城兵として雇い入れた[1]。

なお、六角氏の研究者である新谷和之によれば、六角氏の防衛戦は最前線の城で相手を迎撃する方法を取っており、観音寺城そのものを攻められたのは、明応5年(1496年)に斎藤妙純が攻撃して以来、実に70年ぶりであった。また、こうした防衛戦略から、戦国期の観音寺城は防御の拠点としてよりも近江国の政庁(守護所)としての機能が強化され、東山道に対してはきわめて開放的な構造になっていた。そのため、観音寺城が攻められた場合の防衛戦が困難になっており、信長が観音寺城に向かって直接進撃することは六角氏にとっては想定外であったと分析している[18]。

戦後の影響

信長による近江の平定・義昭の将軍就任

東福寺の通天橋

さらに、信長は観音寺城の攻略後、周辺の長光寺城など十数ヶ城にも軍勢を出し、城下を放火した[15]。六角氏の家臣だった後藤氏や永田氏、進藤氏、永原氏、池田氏、平井氏、九里氏などの国衆も投降し、江南ニ十四郡は5、6日のうちに織田勢によって制圧された[13]。

観音寺城の落城が京都に伝わると、京中の人々は戦場になることを恐れ、騒然となった[19]。一方、京都を支配していた三好三人衆らは六角氏の敗北を聞いて動揺し、織田軍と満足な戦もしないまま、京都から退散した[20][21]

9月14日、信長は兵を休めるとともに、不破光治を使者として岐阜に送り[16]、義昭に近江を平定したことを報告した[15][1]。義昭もまた、21日に織田軍に警護されて上洛を開始した[15][1]。

9月22日、義昭はかつて父の足利義晴が幕府を構えていた近江の桑実寺に入った[19]。同日、信長の先陣が勢多から渡海し、23日に山科七郷に着陣した[19]。

9月27日、信長と義昭は琵琶湖の三井寺に入った。翌28日、入京した義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣し、細川藤孝は宮廷の警護に従事した[21]。

こうして、信長は畿内を掌握し、義昭は征夷大将軍の座に就いた[22]。

六角氏の抵抗

六角氏の家臣団はもともと弱体化していたこともあり、家臣らのほとんどが織田方に下った[2]。だが、六角氏老臣の蒲生賢秀は敗北を聞いてもなお、一族・郎党ら1千の兵で日野城に籠城し、抵抗する様子を見せていた[23]。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田方の武将・神戸具盛が日野城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、信長に人質を差出して忠節を誓った[24][12][25]。この人質が蒲生氏郷である[26]。

六角氏は観音寺城を失ったが、それでも織田軍に対して抵抗の姿勢をみせた[27]。かつて、六角氏は室町幕府から過去2回の追討を受けた(六角征伐)際にも観音寺城を放棄して甲賀郡に拠点を移して長期戦に持ち込んで相手方の撤退を待ち、ほとぼりが冷めた頃に本領を奪還する戦略に成功していたことから、戦略的には正しい方法であったといえる[28]。当時の人々は、この一連の戦いを「足利義昭による上洛戦」と認識していたため、六角氏もこの戦いを3度目の六角征伐として認識していたと考えられる[28]。

しかし、室町幕府と異なり、京都と本国への連絡路として南近江を必要としていた織田氏は、同地の支配に乗り出した[注釈 1]。そのため、織田軍の撤退が行われることはなく、本領を失った六角氏の勢力は奮わず、小規模な戦闘による抵抗が精一杯であった。ここに、戦国大名としての六角氏の没落は決定的なものとなった。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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