解慕漱

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解慕漱(かいぼそ[1]、ヘモス)は、夫余の神話上の王。『三国遺事』によれば地上に降りた天帝であり建国者とされる。

王朝 夫余
在位期間 不詳
概要 解慕漱, 王朝 ...
解慕漱
夫余
王朝 夫余
在位期間 不詳
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ハングル 해모수
漢字 解慕漱
発音 ヘモス
日本語読み: かいぼそ
概要 解慕漱, 各種表記 ...
解慕漱
各種表記
ハングル 해모수
漢字 解慕漱
発音 ヘモス
日本語読み: かいぼそ
RR式 Hae Mosu
MR式 Hae Mosu
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概要

三国史記高句麗本紀[2]によれば、天から来た天帝の子を自称し、扶余解夫婁王が都を去って東扶余に移った後の旧都にやって来た。『三国遺事』紀異の北扶余条[3]によれば、解慕漱は天帝であり、五龍車に乗って紀元前59年に訖升骨城(「在大醫州界」の分注から医巫閭山とする意見もある。)に降り立ち、北夫余を建国した。解慕漱は弓の名手で優れた戦士であり、自らの帝国である北夫余の多くの敵を征服したという。

王権起源神話であって実在した人間ではないとみられている。解慕漱は夫余の建国を述べた中国の古記録や『好太王碑』には同じ名前では現れないが、それは高句麗が夫余を征服したのちにその伝説を取り込んだためとも見られる。東洋文庫の『三国史記』に付された井上秀雄の訳注によれば、「解」の音は太陽を表しており、日本語の「ヒ(日)」に相当する。

『桓檀古記』の記録

桓檀古記』によると、紀元前239年、解慕漱は熊心山において兵を起し、翌年に古列加王を追い出し、北夫余を建国した[4]。解慕漱は藁離国人であるといい、『北史』の索離国、『魏略』の橐離国を指す[4]。「槀離国人」とあるから、夫余人ではなく、夫余(熊心山)に来て、夫余王を追い出し、北夫余の王となった。また、「解慕漱は密かに須臾(番朝鮮)と約束をして」とある[4]

壬戌五十七年,四月八日,解慕漱降于熊心山,起兵,其先槀離國人也。癸亥五十八年,…遂棄位入山,修道登仙。於是五加共治國事六年。先是,宗室大解慕漱密與須臾約,襲據故都白岳山,稱爲天王郞,四境之內,皆爲聽命。於是封諸將,陞須臾侯箕丕爲番朝鮮王,往守上下雲障,蓋北夫餘之興始此。而高句麗乃解慕漱之生鄕也,故亦稱高句麗也。

壬戌(紀元前239年)、解慕漱は熊心山にやってきて兵を起こした。その先は槀離国人である。癸亥(紀元前238年)、…古列加王は遂いに位を棄て山に入り修道する。ここに於いて五加(五部族)は国事を共治すること六年。是れより先、宗室大解慕漱は密かに須臾(番朝鮮)と約束をして檀君の地を襲い、故都白岳山に據り、称して天王郎となる。四境の内は皆命令を聴くようになる。ここに於いて諸将を封じ、須臾侯箕丕を陞て番朝鮮王となす。往きて上下雲障を守らしむ。蓋し北夫餘の興りはこれより始まる。而して高句麗は乃ち解慕漱の生郷なり。故、亦高句麗と称す[4]桓檀古記
丙午四十五年,燕盧綰叛漢,入凶奴。其黨衛滿求亡於我,帝不許,然帝以病不能自斷,番朝鮮王箕準多失機,遂拜衛滿爲博士,劃上下雲障而封之。是歲冬,帝崩,葬于熊心山東麓,太子慕漱離立。丁未元年,番朝鮮王箕準…爲流賊所敗,亡入于海而不還。

丙午(解慕漱)四十五年(紀元前195年)、燕の盧綰は漢に背き匈奴に入る。その黨の衛満は我(夫余)に亡命してくることを求めた。帝は聞き入れない。然るに帝は病気であり、自ら断ることができない。番朝鮮王箕準は多く機を失い、遂に衛満を拝して博士となし、上下雲障を劃いて衛満に与えた。この歳の冬、帝は崩じた。熊心山の東麓に埋葬する。太子の慕漱離が立つ。丁未(紀元前194年)元年、番朝鮮王箕準は…流賊のために敗られ亡げて海に入り而して還えらず[5]桓檀古記

家族

建国神話によれば、解慕漱と河伯の娘の柳花夫人の間の息子に朱蒙がいる[1]。朱蒙は高句麗の伝説上の建国者である。

解慕漱が登場する作品

脚注

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