井上秀雄
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業績・評価
通説とは異なった多くの問題提起をした。倭を大和朝廷とする通説に対して、朝鮮半島南部にいた人を倭人と呼んだ、などがその一例である(「倭・倭人・倭国」東アジア古代史再検討 第2部参照 人文書院)。
朝鮮半島南部、中国江南・中国東北部・内蒙古に倭人がいたとする「広義の倭人論」の代表的な学者であり、1993年に行った第2回東アジアシンポジウムで、「倭の居住地は四地方に分散し、中国王朝に順な異民族の呼び名とされていた。『倭』=日本として一律に見ようとしてきたところに問題があるのでなかろうか」と述べている[1]。これに対し沈仁安は「史料の根拠に欠け、あるいは史料について誤解がある」として、「広義の倭人論」の根拠とする『漢書』地理志の「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳事を以て来り献見すと云ふ」の「楽浪海中」を「辺境地域」と解釈し、「楽浪海中に倭人有り」を「楽浪郡の辺境地域に倭人がいた」とするが、この解釈は全く道理に合わず[2]、文の前後関係では「海中」とは文字通り「海にある」という意味であり、前文では、孔子は道が行われないと嘆き、桴に乗り、渡海して九夷へ行こうとする。後文では「楽浪海中に倭人有り」となるが、前後関係は相呼応しており、孔子が行こうとした九夷が楽浪海中にある倭人のところを暗示している、と指摘している[2]。沈仁安は、「広義の倭人論」を「倭・倭人とは古代日本の古代日本人に対する特定の呼称[3]」「同一人物が成人後再び幼児期の名前を使用しないで、別の寓意のある奥深い名前をつけるのと同じ[4]」「『山海経』以後から中国古籍の中の倭・倭人は終始一貫して古代の日本と古代日本人を指し、倭・倭人の命名は、古代中国人の古代日本人の修正に対する認識[4]」とした。
朝鮮古代史を『日本書紀』から論じるのではなく、根拠とした文書が全く現存していない『三国史記』や中国の関連古典から論じ、それに比して『日本書紀』などの朝鮮関連記述を批判的に解釈するという偏った研究手法との批判がある。例えば、岡田英弘は「戦後になっても、日韓関係を論じる日本人の学者たちは、かならず、『三国史記』の倭人のことを問題にし、それを根拠として、倭国のほうの事情を推定する、というようなことをいっしょうけんめいやっている。たとえば井上秀雄の『任那日本府と倭』だ。しかし、そういう、倭人の活動が書かれている部分は、みな、ずっと後世になって創りだされた、架空の新羅王たちの時代なんだから、これはぜんぜんむだな作業だ」[5]と評した。