計算機自然
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計算機自然(けいさんきしぜん、英語: digital nature)は、計算機・ネットワーク・センサー・アルゴリズムが環境に遍在し、物質・生命・情報の循環と連動して機能する状況、ならびにその状況を前提に自然観・社会像・美学を再編しようとする学際的志向をもつ概念である。メディアアーティスト・研究者の落合陽一が2015年ごろから体系的に論じ[1]、2018年の同名の著書で思想的枠組みを提示した[2]。ユビキタスコンピューティングやタンジブルユーザインタフェースの系譜を受け継ぎつつ、デジタル物理学・情報哲学・オブジェクト指向存在論などとも接点をもつ。英語圏ではdigitized nature(自然のデジタル化)やdigitalized nature(デジタルによる自然の再編)といった近似的用法もあるが[3]、これらは語義・射程が異なる。
計算機自然という概念の中心にあるのは、「自然」と「人工」の二項対立を近代的な認知上の便宜にすぎないと見なし、計算プロセスが生み出す秩序と物理法則が生む秩序を等価に扱おうとする見方である[2]。狭義には、センサー・アルゴリズム・アクチュエータを通じて自然現象を計測・表現・制御・再構成し、体験や環境を設計する実践と理論を指す[4][5]。広義には、世界そのものを計算過程とみなす見解(デジタル物理学・パンコンピュテーショナリズム)や、情報圏(infosphere)における自然観の再編まで含めて論じられることがある[6][7]。
Ochiai & Shimizu (2025) の総説は、この概念を (1) 人間中心か客体志向か、(2) エンチャント的か実装的か、(3) 仮想的(simulated)か物質化的(materialized)か、の三軸で比較整理する多軸フレームを提案し、宗教的VRから都市生態系の市民科学、アニミズム的なバイオ・デジタル作品までの位置づけを試みている[8]。ただし、この枠組みは査読前のプレプリントであり、学術的な受容はこれからの段階にある。
政策領域では、日本のSociety 5.0が「サイバー空間とフィジカル空間の高度融合」を掲げ[9]、オムロンのSINIC理論が21世紀半ばに「自然社会」への移行を想定するなど[10]、技術と自然の統合を視野に入れた社会構想と重なる部分がある。
語源と用法
「計算機自然」は日本語の造語であり、「計算機」(コンピュータ)と「自然」を直結することで、両者のあいだに通常想定される対立を意図的に消去している[2]。落合は著書の副題に「生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂」を掲げ、計算機を生態系の構成要素として位置づけた。英訳のdigital natureは、マーク・ワイザーが示唆した「最も深い技術は消える」[4]というユビキタス・コンピューティングの理念と、石井裕らが提唱したビットとアトムの橋渡し[5]の延長上に位置するが、落合はそれらが技術設計の方法論に留まるのに対し、計算機自然は自然と人工の区別そのものを解消しようとする点で異なると位置づけている[2]。
英語圏ではdigitized natureが自然現象のデジタル化(デジタルツインによる森林管理、3Dスキャンによる標本アーカイブなど)を指し、digitalized natureはデジタル技術を用いた自然の社会的・経済的再編過程を指す。メディアアート領域ではチームラボが展示コンセプトとしてDigitized Natureを用い、「非物質的であるデジタルテクノロジーによって、自然が自然のままアートになる」と説明している[3]。これらは計算機自然と重なる面もあるが、自然観そのものの転換を含意するわけではない。
歴史
前史:サイバネティクスと情報理論(1940–60年代)
ノーバート・ウィーナーは1948年の著書『サイバネティックス』において、動物と機械の制御・通信を統一的に記述する枠組みを提示した[11]。ジョサイア・メイシー・ジュニア財団が主催した一連のメイシー会議(1946–1953年)には、ウィーナーのほかグレゴリー・ベイトソン、マーガレット・ミード、ジョン・フォン・ノイマン、クロード・シャノンら多分野の研究者が集い、情報とフィードバックの概念を生物学・神経学・社会学に展開した[12]。シャノンの情報理論(1948年)は情報を物質やエネルギーと並ぶ基本的なカテゴリとして扱い[13]、ベイトソンは「情報とは差異を生む差異である」と定義して、情報を生態系全体に遍在するパターンとして位置づけた[14]。これらの仕事は、のちに計算と自然を連続的に捉える発想の下地となった。
ユビキタス・コンピューティングとタンジブルUI(1990年代)
1991年、ゼロックスPARCのマーク・ワイザーはユビキタス・コンピューティングの構想を発表し、コンピュータが日常環境に溶け込み透明になる未来を描いた[4]。1997年にはMITメディアラボの石井裕らがタンジブルUI(タンジブル・ビッツ)を提唱し、デジタル情報に物理的な形態を与えてビットとアトムの橋渡しを試みた[5]。石井はのちにラディカル・アトムズ(2012年)としてこの構想を拡張し、物質自体が計算的に変形・応答する状態を展望した[15]。これらの研究はHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)の枠内にとどまるものの、自然・空間・身体と情報の結合を探った点で計算機自然の直接的な先行研究にあたる。
デジタル物理学と自然計算(2000年代)
宇宙や生命過程を計算として捉える試みは、コンラート・ツーゼの『計算する空間』(1969年)に遡る[16]。理論物理学者ジョン・ホイーラーは「It from Bit」(1990年)において物理的実在の根底に情報を据え[17]、スティーヴン・ウルフラムは『A New Kind of Science』(2002年)で単純な計算規則から複雑な自然的パターンが生じることを系統的に論じた[18]。セス・ロイドは『Programming the Universe』(2006年)で宇宙を量子コンピュータと見なす視点を提示した[19]。学術領域としては自然計算(Natural Computing)や人工生命(Artificial Life)が整備され、計算と自然の境界を跨ぐ研究が蓄積された[20]。こうしたパンコンピュテーショナリズムの流れは、計算機自然が「計算プロセスと自然プロセスの等価性」を主張する際の理論的背景となっている。
概念の成立と展開(2010年代)
落合陽一は2015年の著書『魔法の世紀』で、テクノロジーが環境に溶け込む時代像を「魔法」のメタファーで提示し[1]、2018年の『デジタルネイチャー』で計算機自然の概念を体系的に論じた[2]。この著書では、侘(不足・不完全のなかの美)と寂(経年変化・風化の美)をデジタル空間にも適用し、グリッチやデータ劣化にも美的価値を見出す美学が論じられた。2019年には日本科学未来館に常設展示「計算機と自然、計算機の自然(Digitally Natural – Naturally Digital)」が開設され、計算機生成物と「原初の自然」の差異が希薄化する未来像が提示された[21][22]。筑波大学にはデジタルネイチャー開発研究センターが設置され、HCI・CG・ホログラフィ・触覚技術を横断する研究が進められている[23]。
社会実装と万博(2020年代)
2025年の大阪・関西万博では、シグネチャーパビリオン「null²」が「計算機自然」をテーマに掲げ、ミラーメンブレンに覆われた可変的建築とAIによるデジタルツイン体験を提示した[24][25][26]。Ochiai & Shimizu (2025) はarXivプレプリント(査読前)として10年間の概念展開を回顧する総説を発表した[8]。2025年にはWIRED Japan Innovation Awardにおいて計算機自然の実践が評価された[27]。ただし、この概念が国際的にどの程度受容されているかについては、第三者による体系的な評価がまだ少ない。
思想的背景
計算機自然は複数の思想的系譜と接点をもつ。
デジタル物理学とパンコンピュテーショナリズム
「宇宙は計算機である」という仮説は、ツーゼの『計算する空間』に始まり、エドワード・フレドキンのデジタル哲学(1978年–)[28]、ホイーラーの「It from Bit」[17]、ウルフラムの計算的等価性の原理[18]、ロイドの量子計算宇宙[19]と展開されてきた。マックス・テグマークは数学的宇宙仮説においてさらに踏み込み、外的物理的現実そのものが数学的構造体であると主張した[29]。2020年にはウルフラムが物理学プロジェクトを立ち上げ、ハイパーグラフ書き換えに基づく「ルーリアド」の概念を提唱している[30]。これらは「計算プロセスが生む秩序と自然法則が生む秩序は等価である」という計算機自然の中核的主張の前提にあたる。落合はデジタル物理学が「宇宙はデジタルか否か」という認識論的問いにとどまるのに対し、計算機自然は「自然」と「人工」の区別自体の解消を求める点で射程が異なると位置づけている[2]。
情報哲学
ルチアーノ・フロリディは情報哲学(Philosophy of Information)を新たな哲学分野として体系化し、すべての情報的存在者が構成する環境を「インフォスフィア」と呼んだ[7]。フロリディの情報的構造実在論は、物理世界の根本構造が情報の観点から理解可能だと主張するが、宇宙をコンピュータとみなすデジタル存在論とは一線を画している[31]。ベイトソンの「差異を生む差異」という情報の定義[14]は、情報を物質世界から切り離された抽象ではなく生態系全体に遍在するパターンとして捉えるものであり、落合はこの視点を計算機自然の思想的源流の一つとして位置づけている[2]。
オブジェクト指向存在論とポストヒューマニズム
グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論(OOO)は、人間・動物・石・アルゴリズムなどあらゆるオブジェクトに同等の存在論的尊厳を認める「平坦な存在論」(flat ontology)を提唱した[32]。ティモシー・モートンは著書『Ecology without Nature』(2007年)で「自然」という概念自体が人間と非人間の分離を前提とし、エコロジカルな思考の障害になっていると論じた[33]。『Hyperobjects』(2013年)では、気候変動やスチロフォームのように時空間的に巨大に分布するオブジェクトの概念を提唱した[34]。
ブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論(ANT)は、人間と非人間の行為能力(エージェンシー)を対称的に扱い、近代が生み出した自然/文化の二分法を虚構と見なした[35][36]。ダナ・ハラウェイは「サイボーグ宣言」(1985年)で自然/文化、人間/機械の境界の解体を論じ[37]、『Staying with the Trouble』(2016年)では人間と非人間の「共になること(becoming-with)」を提唱した[38]。落合は、計算機自然が人間・機械・自然を同一の平面上に配置する点でOOOやポストヒューマニズムと問題意識を共有すると論じている[2]。
東洋哲学との関連
計算機自然の提唱者である落合は、東洋哲学の伝統に概念的根拠を求めることが多い[2]。荘子の「物化」(胡蝶の夢の寓話で荘周と蝶の境界が溶ける)は、自然と人工の境界溶解と同型の構造をもつと落合は論じている[2]。西田幾多郎は「場所」(basho)の論理(1926年)において、主客未分の直接的経験としての「純粋経験」と、すべてが生成する場としての「絶対無」を論じた[39]。落合は西田の場所の論理に、自然を客体ではなく「場」として捉え直す視座を見出している[2]。道元の身心脱落は主客二元論の徹底的な克服を示し、柳宗悦の民藝思想における「用の美」や「他力の美学」は、個人の意図ではなく自然の力と素材が美を生むという考えを含む[40]。インド哲学の縁起(pratītyasamutpāda)も、独立して自存する実体の不在を説く点で、落合が計算機自然において自然と人工を文脈に応じた仮の分類と見なす発想に通じると論じられている[41]。ただし、こうした東洋哲学との接続は落合自身の著述に依るところが大きく、哲学研究者による独立した検討はまだ少ない。
「自然」の翻訳問題と宇宙技芸
計算機自然が「自然」の語を用いる際、その意味は一義的ではない。翻訳語研究者の柳父章は『翻訳の思想——「自然」とNATURE』(1977年)において、明治期に西洋語の"nature"の訳語として「自然」(しぜん)が定着した経緯を分析した[42]。柳父によれば、近世以前の日本語で「自然」(じねん)は「おのずからしかり」——作為なく自ずと然ること——を意味しており、外界の物理的世界を指す語ではなかった。福澤諭吉の教科書『世界国尽』(1869年)などを通じて"nature"=「自然」(しぜん)という対応が広まったが、西洋の"nature"が神(超自然)との対概念として成立した経緯は日本語の「自然」にはなく、翻訳は意味のずれを内包したまま定着した。柳父はこうした翻訳語が実際の中身と異なる深遠な印象を与え続ける構造を「カセット効果」と呼んだ[43]。
中国語の「自然」(zìrán)はさらに異なる射程をもつ。老子『道徳経』第25章「道法自然」において道が従うのは外的な「自然界」ではなく「自ずから然る」という道そのものの様態であり、西洋的な"nature"概念とは根本的に異なる[44]。日本仏教では親鸞が「自然法爾」(じねんほうに)の語を用い、はからい(作為・計算)を離れた他力のはたらきを論じた。計算機自然が「計算機」と「自然」を直結する造語である以上、どの「自然」——しぜん(近代的な物理的世界)、じねん(作為なき自発性)、zìrán(道の自己展開)——を指すかによって概念の射程は変わりうる。
哲学者のユク・ホイ(許煜)は『中国における技術への問い——宇宙技芸試論』(2016年、日本語訳:ゲンロン、2022年)で、技術は文化や宇宙論から独立した普遍的営みではなく、それぞれの宇宙論と不可分な「宇宙技芸」(cosmotechnics)であると論じた[45]。ホイは中国の伝統的な技術観を「道」(宇宙的秩序)と「器」(道具)の統一として再構成し、ハイデッガーが論じた「ゲシュテル」(総かり立て体制)を西洋の一つのコスモテクニクスにすぎないと位置づけた[46]。ホイはさらに「テクノダイバーシティ」(技術多様性)の概念を展開し、生物多様性・知の多様性・技術多様性は不可分であると論じている[47]。京都学派との関連では、西谷啓治の「近代の超克」論に注目しつつ、その試みが帝国主義に帰着した歴史を踏まえ、文化的独自性の主張にはつねに政治的リスクが伴うと警告している[48]。
計算機自然とコスモテクニクスはいずれも西洋近代の技術概念を相対化しようとする試みであるが、両者の直接的な学術的対話は現時点では確認されていない。
第二次サイバネティクスとオートポイエーシス
ハインツ・フォン・フェルスターは1970年代に第二次サイバネティクスを発展させ、観察者自身を観察対象の内部に位置づける反省的な科学を構想した[49]。ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが1972年に導入したオートポイエーシス(自己産出)の概念は、生命体が自らの構成要素を絶えず産出して境界と組織を維持するシステムとして記述するものであり[50]、落合はオートポイエーシスの概念を、計算機自然における「中央制御なき自己組織化」の考え方と関連づけて論じている[2]。
研究機関・プロジェクト
計算機自然を掲げる研究拠点のほか、名称が重なるプロジェクトが複数存在する。
筑波大学デジタルネイチャー開発研究センターは、「計算機自然」を明示的な研究ビジョンとして掲げ、HCI・CG・ホログラフィ・触覚技術を横断する研究を行っている[23]。
海外では「デジタル・ネイチャー」の語を冠した複数の研究プロジェクトが進行しているが、いずれも計算機自然とは異なる文脈で用いられている。ストックホルム大学の「Digital Nature」プロジェクトはスウェーデン農村における収穫・労働とデジタルの社会技術的関係を調査するものであり[51]、メルボルン大学のHCIグループ「Digital nature」は自然体験を支援する技術設計を研究している[52]。トウェンテ大学の「Digital Nature – Enhancing Patient Experience in ICU」はICU患者へのデジタル自然体験の提供を探究しており[53]、ベルギーの「Digital Nature for Healthcare」は芸術と医療の連携によるデジタル自然の応用を推進している[54]。
学際的なレビュー論文としては、Moss et al. (2021) がスマートシティ論におけるデジタルと自然の関係を「デジタル・アーバン・ネイチャー」として分析し[55]、Galle et al. (2019) は「インターネット・オブ・ネイチャー」の概念を提唱して都市生態系のデジタル管理を論じた[56]。
応用と実践
メディアアートと展示
計算と自然の関係を探究するメディアアートの系譜は、1960年代のアルゴリズム的コンピュータアート(ヴェラ・モルナール、ゲオルク・ネース、フリーダー・ナーケら)に遡り、1968年のロンドンICAでの「サイバネティック・セレンディピティ」展で広く認知された[57]。ハロルド・コーエンの自律描画プログラムAARON(1970年代–)、マイロン・クルーガーのVideoplace(1974年–)は、計算プロセスの自律的な秩序形成とインタラクションの可能性を先駆的に示した。
現代では、チームラボの大規模没入型展示(Borderless、Planets等)が自然現象のデジタル再構成と来場者のインタラクションを融合させ、計算的な生態系としての側面が論じられている[58]。レフィク・アナドルのデータ駆動型インスタレーション「Unsupervised」(2022年、MoMA)は美術館のアーカイブデータからAIが形態を生成する作品として注目を集めたが[59]、作品の概念的深みについては批判的な見解も存在する[60][61]。池田亮司のdatamaticsシリーズは科学データを光と音の物理的体験に変換し、「データの物質化」を実践する[62]。
落合自身の作品群のうち、概念の展開に関わるものとして以下が挙げられる。フェムト秒レーザーによる空中ディスプレイFairy Lights in Femtoseconds(2015年、ACM TOG)は、超短パルスレーザーのプラズマ発光で触れる空中映像を生成する作品であり、アルスエレクトロニカHonorary Mention(栄誉賞、2016年)およびEU S+T+ARTS Prize(2016年)を受賞した[63][64]。2018年の個展「山紫水明 ∽ 事事無碍 ∽ 計算機自然」(EYE OF GYRE、東京)は、計算機自然を華厳の事事無碍(あらゆる事象が互いに妨げなく浸透し合う)と結びつけた展示であった[65][66]。2019年のアルスエレクトロニカ「The Form of Digital Nature」展では、人工的に印刷された蝶と死んだ標本を並置し、計算的複製と自然物の境界を問うた[67]。飛騨高山の日下部民藝館では2021年から毎年個展を開催し、仏教の空(くう)とプログラミングのnull(値の不在)を等号で結ぶ「null」の概念や、柳宗悦の民藝との接続を試みている[68][69]。
展示施設としては、アルスエレクトロニカ(1979年設立、リンツ)がアート・テクノロジー・社会の交差を扱う拠点であり[70]、ZKMカールスルーエ(1989年設立)は「デジタル的バウハウス」として伝統的芸術のデジタル時代への継承を目指している。日本ではNTTインターコミュニケーション・センター(ICC、1997年)がメディアアートの制度的基盤を提供してきた。
都市・保全・環境活動
都市の文脈では、Moss et al. (2021) が「デジタル・アーバン・ネイチャー」としてスマートシティ論における自然とデジタルの関係性の空白を指摘した[55]。環境保全の領域では「デジタルツイン」技術の応用が進んでおり、欧州委員会のBiodiversity Digital Twin(BioDT)プロジェクトは侵略的外来種や花粉媒介者を対象としたプロトタイプを構築中である[71]。iNaturalistやeBirdなどの市民科学プラットフォームは、AIの種同定アルゴリズムと市民の観察を組み合わせ、生態学的知識を分散的に蓄積している。
ヘルスケアと福祉
ICU環境でのバーチャル自然体験が患者の不安軽減と睡眠の質の改善に寄与するという研究が蓄積されつつあり[53]、高齢者向けのデジタル自然環境の設計も進められている[72]。こうした知見は、ロジャー・ウルリッヒ(1984年)が窓からの緑地の眺めと術後回復の関連を示して以来蓄積されてきた研究群に連なり、バイオフィリックデザイン(生命や自然への先天的な愛着を建築に活かす設計思想)とも交わる[73]。
社会的位置づけ
政策概念との関連
日本のSociety 5.0は「サイバー空間とフィジカル空間の高度融合」を基軸とし、サイバーフィジカルシステム(CPS)を基盤技術に据えている[9]。オムロンのSINIC理論は、情報社会の次の段階として「自律社会」(2025年頃–)を経て「自然社会」に至ると予測し、技術が環境に溶け込む状態を展望した[10]。落合はSINIC理論と計算機自然の構造的共鳴を学会誌上で論じている[74]。ただし、Society 5.0の「人間中心」の理念とAI推進の間の緊張関係を指摘する研究もあり[75]、こうした批判は計算機自然の社会実装にも当てはまりうる。
ガバナンスと倫理
計算機自然が想定するセンサー・アルゴリズム・AIの遍在は、統治の仕組みにも関わる問題を生む。国際的にはOECD AI原則(2019年、2024年更新)、UNESCO AI倫理勧告(2021年)、EU AI法(2024年発効)が整備され[76][77][78]、2023年にはG7広島サミットで広島AIプロセスが発足した[79]。
分散型自律組織(DAO)や液体民主主義は、分散的な意思決定を技術的に実装する試みとして議論されている。アルゴリズムのような非人間的行為者をガバナンスにどう組み込むかという問題は、AIの社会実装が進むなかで各国の政策議論の俎上に載りつつある。
評価・議論
環境・エネルギー問題
計算機インフラの物質的基盤は深刻な環境負荷を伴う。国際エネルギー機関(IEA)の推計では、データセンターの世界全体の電力消費量は2024年に約415テラワット時(TWh)、2030年には約945TWhに倍増する見通しである[80][81]。冷却のための水資源消費、電子廃棄物(2022年に世界で6,200万トン[82])、レアアースの採掘負荷も懸念される。Strubell et al. (2019) はNLPモデルの学習が大量のCO2を排出しうることを定量的に示した[83]。「計算と自然の等価性」を掲げる計算機自然にとって、その計算インフラ自体の物質的制約は避けて通れない論点である。落合自身もこの問題を「質量への憧憬」と呼び、計算のコスト零化が進むなかで残る物質性に注目している[2]。
監視・プライバシー
センサーとアルゴリズムが環境に遍在する状態は、ショシャナ・ズボフが「監視資本主義」と呼ぶ、個人の経験が行動データとして一方的に領有される経済秩序をもたらしうる[84]。エフゲニー・モロゾフは「テクノロジカル・ソリューショニズム」(複雑な社会問題を技術的に解決できるとする信念)を批判し、スマートシティにおけるセンサー配備が都市インフラの管理権を民間IT企業に委ねる構造的問題を指摘した[85]。計算機自然が「テクノロジーは道具ではなく環境」と捉えるなら、その環境の設計権限を誰が握るかは政治的に避けて通れない問題となる。バルセロナのDecidimプラットフォーム[86]のような市民主導型の実践と、トロントのSidewalk Labs計画(2020年中止[87])のような企業主導型の試みとの対比は、この問題の具体例にあたる。
概念の明確性と受容
計算機自然はユビキタス・コンピューティング、デジタル物理学、ポストヒューマニズム、日本の伝統美学を包括するが、その広さゆえに「何が計算機自然で何がそうでないか」の弁別が難しいという問題がある。この概念が日本語圏の特定の研究者を中心に展開されてきた経緯もあり、国際的な学術コミュニティでの独立した検証はこれからの段階にある。ジャン・ボードリヤールがシミュレーションによる現実の置換として論じたハイパーリアリティ[88]や、テクノ・オカルティズムへの注意喚起[8]も関連する論点となる。
デジタルデバイド
ITUの統計によれば、2024年時点で世界人口の約3分の1(26億人)がオフラインであり、高所得国のインターネット利用率93%に対して低所得国では27%にとどまる[89]。計算が「環境」として遍在する世界を前提とする計算機自然の構想は、接続できない人々の存在を見落としかねない。
スペクタクル性とアートウォッシング
没入型デジタルアートに対しては、ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』(1967年)の枠組みから、圧倒的な視覚体験が批判的思考を麻痺させ受動的消費に還元するという批判がある[90]。大手テック企業によるメディアアートの支援が批判的評価を文化的イメージで緩和する「アートウォッシング」として機能しうるという指摘もある。一方で、参加者の行動がリアルタイムで作品を変容させるインタラクティブ・システムにおいては「受動的鑑賞/能動的参加」の二項対立自体が溶解しているという反論も成立する。
類似概念・比較
- Digitized / Digitalized Nature: 自然のデジタル化(3Dスキャン、デジタルツイン等)またはデジタル技術による自然の社会的再編を指す用法。計算機自然のような存在論的主張は含まない[3]。
- デジタル物理学・パンコンピュテーショナリズム: 宇宙を計算過程とみなす仮説。ツーゼ、フレドキン、ウルフラム、ロイドらが展開[18][19]。計算機自然の理論的前提の一つにあたる。
- Society 5.0・SINIC理論の「自然社会」: 技術と自然の統合を射程に入れた社会構想[9][10]。政策志向であり、存在論的な自然観の転換を直接論じるものではない。
- オブジェクト指向存在論(OOO): ハーマンらによる平坦な存在論。計算機自然と理論的関心を共有するが、OOO自体はメディアアートやHCIの実践を含まない[32]。
- アクターネットワーク理論(ANT): ラトゥールらによる、人間と非人間の対称的な扱いを提唱する方法論。計算機自然の「非人間的行為者」の概念と密接に関連する[36]。
- 宇宙技芸(コスモテクニクス): ユク・ホイが提唱した、宇宙論と技術の不可分性を論じる枠組み[45]。技術の文化的多元性を強調し、西洋的な技術概念の普遍性に疑問を呈する点で、計算機自然とは異なるアプローチから自然/技術二項対立の克服を試みる。