許寂
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許秘の孫にあたる。若くして山水を好み、経書や史書を広く読んだ。三式を極め、最も『易経』の卦に明るかった。長らく明州の四明山に棲み、当時の声誉に関わらなかった。唐の昭宗がかれの名を聞いて、宮殿に召し出し、『易経』の解釈について諮問した。ほどなく許寂は山に帰りたいと願い出て、荊州に寓居した[2]。
忠義軍節度使趙匡凝の弟の荊南節度使趙匡明に会って、師として保養の道を教授した。唐末に諫官に任じられたが、応召しなかった。天祐2年(905年)、朱全忠が襄州を攻撃し、趙匡凝兄弟が襄州を棄てて剣南に逃れると、許寂も同行した。前蜀の王建に師礼で待遇され、宰相にのぼった[3]。
同光3年(925年)、後唐が前蜀を滅ぼすと、許寂は王衍とともに東行し、工部尚書に任じられて致仕した。洛陽で占卜をして暮らした。清泰3年(936年)6月14日、死去した。享年は八十数歳。子孫は尚書省の郎となった[3]。