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調子家

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氏族 > 日本の氏族 > 氏 > 下毛野氏 > 調子家
種別 武家
出身地 下野国
調子家
家紋
丸に出八重花角(まる に で やえはっかく)
本姓 下毛野朝臣
家祖 下毛野敦実
種別 武家
出身地 下野国
主な根拠地 山城国乙訓郡調子荘
著名な人物 調子武音
支流、分家 富家(地下家)
凡例 / Category:日本の氏族

調子家(ちょうしけ)、調子氏(ちょうしし)は、平安時代から江戸時代にかけての武家。

地下家として近衛府の官人となっている。


平安時代の活動と随身

10世紀頃より、下毛野氏は宮城警固を担う近衛府の下級官人(府生・番長・近衛など)の職を世襲するようになった。彼らは位階を持つ者の子弟や勲位保持者の中から、弓馬や相撲に優れた者が選抜され、試験を経て採用された。平安時代初期には京中の巡検や天皇周辺の雑事、儀式への参加を主導し、実力派の武力集団としての側面を持っていた[1]。

下毛野氏の地位を確立したのは、9世紀後半の下毛野敦行である。続く下毛野公時は藤原道長の四天王の一人と称され、坂田金時(金太郎)のモデルになった人物とも言われる。彼らは摂関家(藤原氏)と結びつき、藤原道長や藤原頼通の随身として勢力を伸ばした。この関係は長期化して家子化し、一種の主従関係へと発展した。また下毛野氏は馬芸の家として知られ、保元3年(1158年)の保元競馬絵にはその姿が描かれている。また、兵部省管轄の主鷹司が廃止された9世紀後半以降、蔵人所の下で鷹の飼養・調教を担う鷹飼の職も世襲した[2]。

鎌倉時代と調子家の成立

下毛野氏は淀川・桂川流域の水陸交通の要衝に位置する散所(淀右方散所など)を管理していた。これらは摂関家の荘園群から上がる年貢や公事を集積・運用するセンターとしての機能を果たしており、下毛野氏は預所や下司に近い立場で、造船、車借、牛馬の飼育などを統括した[3]。

鎌倉時代に入ると、下毛野氏は社会的身分として「侍」に分類された。ここでの「侍」は、摂関家や権門に近侍し、位階では六位、官職では中央官庁の判官(次官の下位)クラスを指す[4]。

名字としての「調子」が初めて史料に登場するのは、明徳元年(1390年)の『調子家文書』である。本来の本姓は下毛野氏であるが、所領を近衛家に寄進し調子荘が成立したことや、氏族の発展に伴い、居住地や領地の名をとって調子を名乗るようになった[5]。

調子家文書

京都府長岡京市の調子地区に伝来する古文書群である。中世以来の貴重な史料を含み、随身の装束や所領関係、鷹飼に関する記録など、計110点前後が確認されている。足利義満や足利義教の時期の文書も含まれており、中世の下級官人の実態を知る上で極めて重要な史料群である[6]。

鎌倉時代後半になると、下毛野氏の所領支配に試練が訪れた。延慶2年(1309年)から延慶3年(1310年)にかけて、所領の一部である山門の帥律師に売却されるなど、貴族社会全体の衰退とともに、経済的基盤が揺らぎ始めた様子が記録されている[7]。

南北朝時代から室町時代の活動

南北朝内乱の動乱期、調子氏は生存をかけた懸命な努力を展開した。調子武音は室町幕府の3代将軍・足利義満に仕え、応永元年(1394年)12月には伯耆権守に任じられている。調子氏は将軍家の御料所である西岡の葛原荘などの管理を担った。また、近衛府への奉仕を続けるとともに、室町殿(足利将軍)の当主に臣従し、軍事や実務で貢献した。天正13年(1585年)には調子武直が伯耆守に任ぜられた記録がある[8]。

所領支配

調子氏は、以下のように山城国や近江国、丹波国に複数の所領や権利を保持していた[9]。

応永17年(1410年)頃、調子武音や調子武達から調子武俊へ所領が譲渡されているが、他勢力による押領や不知行(実効支配の喪失)に悩まされることも多かった。応永2年(1395年)には、足利義満から若狭国の代地を宛行われるなど、室町幕府の権威を背景に領地の維持を図った[10]。

系図について

調子氏の家譜(調子家譜)は、下毛野氏の系図を基に構成されている。家譜の成立には複数の段階があり、慶長13年(1598年)の書写本を延宝7年(1679年)に再写したものが現存している。また、弘化4年(1847年)から嘉永3年(1850年)の間に成立したと判断される菊亭家(今出川家)所伝の系図も存在する。同家譜によれば、藤原師実・藤原師通の随身であった下毛野武忠の子孫とされる[11]。

系図の空白期

調子家の歴史には、14世紀後半から15世紀後半にかけて、史料上確認できない「空白期間」が存在する。これは南北朝内乱による社会的混乱が特権的貴族層やその随身層に大きなダメージを与えたことが背景にあると考えられる。現在の調子家文書や系図は、幕末期に地下家の官歴などを基に再構成・編纂された側面を持つ[12]。

主要な人物

南北朝内乱期から織豊期にかけて、調子武音、調子武遠、調子武俊、調子武春、調子武経、調子武吉、調子武直などの名が見える。

系図

下毛野敦実
 
 
 
下毛野敦行
 
 
 
下毛野重行
 
 
 
下毛野公忠
 
 
 
下毛野公武
 
 
 
下毛野敦季
 
 
 
下毛野武忠
 
 
 
下毛野武正
 
 
 
下毛野諸武
 
 
 
下毛野久武
 
 
 
下毛野吉武
 
 
 
下毛野祐武
 
 
 
下毛野武貞
 
 
 
調子武次
 
 
 
調子武音
 
 
 
調子武遠
 
 
 
調子武俊
 
 
 
調子武春
 
 
 
調子武経
 
 
 
調子武吉
 
 
 
調子武直
 
 
 
調子武俊
 
 
 
調子武通
 
 
 
調子武政
 
 
 
調子武平
 
 
 
調子武忠
 
 
 
調子武有
 
 
 
調子武員
 
 
 
調子武弘
 
 
 
調子武敬
 
 
 
調子武礼
 
 
 
調子武貫
 
 
 
調子武起
 
 
 
調子武発
 
 
 
調子武寛
 
 
 
調子武斐

庶流

調子武永
 
 
 
調子武信
 
 
 
調子武行
 
 
 
調子武辰
 
 
 
調子武延
 
 
 
調子武明
 
 
 
調子武邑
 
 
 
調子武述
 
 
 
調子武好
 
 
 
調子武里
 
 
 
調子武親
 
 
 
調子武長
 
 
 
調子武道

系図に見える庶流の人物

* 下毛野公助(下毛野重行)の子
* 下毛野公友(下毛野重行)の子
* 下毛野公時(下毛野公友)の子
* 下毛野近季(下毛野敦季)の子
* 下毛野季利(下毛野近季)の子
* 下毛野敦利(下毛野敦季)の子
* 下毛野敦忠(下毛野敦利)の子
* 下毛野忠武(下毛野敦忠)の子
* 下毛野敦方(下毛野敦利)の子
* 下毛野朝武(下毛野敦方)の子
* 下毛野朝利(下毛野朝武)の子
* 下毛野武安(下毛野武正)の子
* 下毛野諸武(下毛野武正)の子
* 下毛野武成(下毛野武正)の子
*  下毛野武致(宗)(下毛野武安)の子
* 下毛野武房(下毛野武致(宗))の子
* 下毛野武守(下毛野武成)の子
* 下毛野武員(下毛野武守)の子
* 下毛野武利(下毛野武員)の子
* 下毛野武村(下毛野武員)の子
* 下毛野武茂(用)(下毛野武守)の子
* 下毛野武秋(下毛野武茂(用))の子
* 下毛野武友(下毛野武秋)の子
* 下毛野武春(下毛野武秋)の子
* 下毛野武世(下毛野武貞)の子

別家・富家

一次史料に見える左右近衛府の下毛野氏

参考文献

脚注

関連項目

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