諏訪神社 (添田町)
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| 諏訪神社 | |
|---|---|
| 所在地 | 福岡県田川郡添田町大字中元寺1461番地 |
| 位置 | 北緯33度32分49.4秒 東経130度50分53.5秒 / 北緯33.547056度 東経130.848194度座標: 北緯33度32分49.4秒 東経130度50分53.5秒 / 北緯33.547056度 東経130.848194度 |
| 主祭神 | 建御名方神[1] |
| 社格等 | 旧村社[2] |
| 創建 | 保元3年(1158年)[1] |
| 別名 | 両社大明神[3] |
| 例祭 | 9月17日[4]、9月25日[5] |
| 地図 | |
歴史
平安・鎌倉期
元々は別所という地に鎮座していたが、保元3年(1158年)に平清盛が大宰大弐となって九州に下向した際に随行した信濃国の住人で産土神として諏訪明神を崇敬する平家依が現在地に遷座させたが[注釈 2]、治承・寿永の乱や承久の乱で社殿が大破した[1]。
戦国期
明応年間(1492年-1501年)に深見摂津守が宝ヶ岳城を居城とする際に社殿を修造したが、天正9年(1581年)にも兵火により社殿や宝庫等が焼失した[6]。
天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行われた豊臣秀吉の九州平定が終わると、秀吉から小倉城を与えられた毛利吉成(毛利勝信)は別城として宝ヶ岳城を築くと共に諏訪神社の社殿を造営し、神田を寄進した上、地願17苗の屋敷[注釈 3]を免租した[8]。また、蛭子堂の蛭子命を合祀して「両社大明神」と称した[7]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に豊前国を与えられた細川忠興は、慶長7年(1602年)に心願成就のため両社大明神と大文字の唐銅製の扁額と木製の瓱子1対を奉納した[7]。
江戸期
寛永9年(1632年)、熊本藩主・加藤忠広の改易に伴う細川忠利の肥後国移封によって新たな小倉藩主となった小笠原忠真は、室町時代に小笠原氏が信濃国の守護を務めていたことから領内に諏訪神社があるかを尋ねて中元寺村の諏訪神社がある事を知ると幣帛を奉納し、武運長久・五穀豊穣の祈念を毎年行うこととした[7]。また、諏訪神社の神主家である木森氏は木森重義の代から年始に藩主へのお目見えが許され、盃を賜ることが通例となった[7][9]。
江戸時代には上中元寺村と下中元寺村の氏神となり、元禄11年(1698年)に9月18日に氏子から奉納された石灯籠が現存している[7]。
近現代
明治22年(1889年)、氏子中の寄付金4000円余りにより、拝殿を改築した[5]。明治36年(1903年)に小松宮彰仁親王直筆の扁額が献納され、明治39年(1906年)には東郷平八郎と大山巌直筆の扁額が献納される[9]。明治41年(1908年)には1340円余りの費用で神殿と幣殿を改築した[5]。
大正4年(1915年)には870円余りの費用で拝殿の葺き替えを行っている[5]。大正6年(1917年)12月、大隈林三が汐井場の石段を寄付した[9]。大正7年(1918年)には氏子中により玉垣が建設される[9]。
社家
江戸時代以前の社家については不明であるが、毛利吉成(毛利勝信)の末子とされる木森重頼が諏訪神社に奉仕して以降、現在に至るまで清原姓木森氏が神主を務めている[9]。
- 木森重頼(右門允) - 毛利吉成(毛利勝信)の末子で、毛利吉政(毛利勝永)の弟とされる。
- 木森重行(左馬)
- 木森重安(七左衛門)
- 木森重久(兵左衛門)
- 木森重弥(徳右衛門) - 弟の木森源大夫(初めは右吉)が落合村に分家し、落合村の社人の祖となる[9]。
- 木森重次(宮内) - 宝永6年(1709年)に上京し、初めて吉田家に属して裁許状を受領した[9]。
- 木森重義(宮内) - 享保2年(1717年)2月に上京し、裁許状を受領した[9]。また、重義の代以降、小倉藩主・小笠原家から年始の御目見えを許される[9]。
- 木森重勝(播摩) - 宝暦12年(1762年)に上京し、裁許状を受領する[9]。
- 木森重経(隠岐) - 寛政7年(1795年)5月に上京し、裁許状を受領する[9]。
- 木森重満(播磨正) - 文政8年(1825年)4月に上京し、裁許状を受領する[9]。
- 木森重朗(相模正) - 安政4年(1857年)4月に上京し、裁許状を受領する[9]。
- 木森重門 - 明治18年(1885年)9月3日まで奉仕[9]。
- 木森重隆 - 昭和23年(1948年)死去[9]。
- 木森英輔 - 昭和34年(1959年)時点で奉祀している[9]。
