諸葛文彪
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咸和6年(331年)、夫の庾会(中国語版)が蘇峻の乱の渦中で殺されると、諸葛文彪は後家を立てることを誓い、剛直な性格だったこともあって縁談を持ち込む者も居なかった。しかし父の諸葛恢は江虨(中国語版)の求婚を許し、先ず亡き庾会(中国語版)の父庾亮にその旨を記した手紙を送った。庾亮はこれに対し、「彼女はまだお若いのだから、それは尤もなことである。ただ亡き我が子を思うと、まるでつい先ほど亡くなったばかりのような気がしてならない」と返書した[3][4]。
斯くして諸葛恢は諸葛文彪に庾会との婚姻を結ばすべく、諸葛家を江家の近くへ移して諸葛文彪には「ここへ移るのがよい」と虚言した。諸葛文彪がこれに従うと、家人は忽ち立ち去って、諸葛文彪だけが家に残された。諸葛文彪が異変を察した時には、もはや外へ出ることはできなくなり、江虨が来るまでの間、彼女は嗚咽し罵声を響かせた。やがて江虨は夜に諸葛家を訪れて寝泊まりするようになり、常に諸葛文彪の向かいの床で寝た[4]。
江虨は諸葛文彪の心情が落ち着いてきた機を窺い、長いあいだ目を覚まさず、声や息遣いも次第に荒くして体調の悪化を装った。すると諸葛文彪は婢女を呼んで 「江郎(江虨)を起こしてきなさい」と命じた。江虨はそこで飛び起き、諸葛文彪に近づいて「私は天下の一人の男に過ぎぬ。寝言など、貴女に何の関係があって、わざわざ起こすのか。しかしこうして縁を得た以上、言葉を交わさぬ訳にはいかない」と説いた。諸葛文彪はこの言葉を聴くと羞恥して黙り込み、それ以来両者の情愛と信義は次第に深まっていったといい、のちに婚姻を承諾した[5][6]。
なお、『世説新語』の註釈者劉孝標は諸葛文彪と庾会との婚姻の逸話について、「諸葛令の清らかで優れた資質と、江君の豊かな識見とを思えば、決して聖人の正しい規範に背き、夷狄の卑しい風習に従うようなことはなかったはずである」と酷評している[5]。
脚注
- ↑ 「彪」の音「ヒョウ」は慣用音で、漢音で読むなら「ヒュウ」である。
- ↑ 狩野直禎 / 日本大百科全書(ニッポニカ)『「諸葛亮」の意味・わかりやすい解説』小学館、コトバンク。https://kotobank.jp/word/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE-80057#:~:text=%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%84%E8%A7%A3%E8%AA%AC-,%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE,-%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86%0A%EF%BC%88181。2026年4月20日閲覧。
- ↑ 『世說新語』「傷逝」:庾亮兒遭蘇峻難遇害。諸葛道明女為庾兒婦,既寡,將改適,〈亮子會,會妻父彪,並已見上。〉與亮書及之。亮答曰:「賢女尚少,故其宜也。感念亡兒,若在初沒。」
- 1 2 『世說新語』「假譎」:諸葛令女,庾氏婦,既寡,誓云:「不復重出!」此女性甚正彊,無有登車理。〈即庾亮子會妻。父虨,已見上。〉恢既許江思玄婚,乃移家近之。初,誑女云:「宜徙。」於是家人一時去,獨留女在後。比其覺,已不復得出。江郎莫來,女哭詈彌甚,積日漸歇。江虨暝入宿,恆在對床上。
- 1 2 『世說新語』「假譎」:後觀其意轉帖,虨乃詐厭,良久不悟,聲氣轉急。女乃呼婢云:「喚江郎覺!」江於是躍來就之曰:「我自是天下男子,厭,何預卿事而見喚邪?既爾相關,不得不與人語。」女默然而慙,情義遂篤。〈葛令之清英,江君之茂識,必不背聖人之正典,習蠻夷之穢行。康王之言,所輕多矣。
- ↑ 『世說新語』「方正」:諸葛恢大女適太尉庾亮兒,〈《恢別傳》曰:「恢字道明,琅邪陽都人。祖誕,司空。父靚,亦知名。恢少有令問,稱爲明賢。避難江左,中宗召補主簿,累遷尚書令。」《庾氏譜》曰:「庾亮子會,娶恢女,名文彪。」庾會,別見。〉次女適徐州刺史羊忱兒。〈《羊氏譜》曰:「羊楷字道茂。祖繇,車騎掾。父忱,侍中。楷仕至尚書郎。娶諸葛恢次女。」〉亮子被蘇峻害,改適江虨。〈虨別見。