谷川藩
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前史
| 安土桃山時代~江戸時代初期の桑山家略系図 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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桑山重晴は豊臣秀長の麾下に属した武将であり、天正13年(1585年)の紀州征伐後に紀伊国が秀長に与えられると、和歌山城の城代を務めて3万石を領した[5][6][7]。その後、文禄4年(1595年)の秀次事件の際に伏見城の守衛にあたったことが功績とされて[8]和泉国谷川において1万石を加増された[9]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の役の際、桑山重晴(治部卿法印)およびその嫡孫の一晴[注釈 3]は東軍に属し、和歌山城を守備するとともに、西軍に属した新宮城の堀内氏善に対処した[9]。同年、桑山重晴は致仕し、その領地4万石のうち和歌山城と2万石を一晴が継いだ[9]。1万石は桑山元晴(重晴の次男)に与えられ[9][10]、谷川1万石は重晴の所領(隠居料)とされたが、このほかに一晴が4000石、元晴が2000石を重晴の隠居料として拠出したため、重晴は合計1万6000石を隠居料として領有することとなった[9][10][注釈 4]。
立藩から廃藩まで
慶長11年(1606年)、桑山重晴が死去した[8][9]。重晴の養老料1万6000石のうち6000石は元晴に与えられ、1万石は桑山清晴(元晴の子)に与えられた[9]。清晴は和泉国日根郡谷川に陣屋を置いた[3]。『角川日本地名大辞典』[8]・『藩と城下町の事典』[3]は、清晴が1万石を分与されたことをもって谷川藩の立藩とする。
慶長14年(1609年)、桑山清晴は幕府から咎めを受けて蟄居処分となった[11][8][12][注釈 5]。その所領はその父・桑山元晴の大和御所藩領に編入され、谷川藩は廃藩となった[8][13]。
後史
谷川藩領を編入した御所藩は、寛永6年(1629年)に2代藩主貞晴(加賀守)が没した際、無嗣を理由として廃藩になった[13]。