豊登道春
日本の元プロレスラー、大相撲力士 (1931-1998)
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豊登 道春(とよのぼり みちはる、1931年3月21日 - 1998年7月1日)は、福岡県田川郡金田町(現在の福智町)出身で立浪部屋所属に所属した元大相撲力士・元プロレスラー。本名は定野 道春(さだの みちはる)。最高位は東前頭15枚目。大相撲時代の体格は、身長173cm、体重105kg。レスラー時代の体格は身長174cm、体重114kg[1]。
来歴
幼少期
1945年、当時戸畑市(現・北九州市戸畑区)にあった日本製鐵の海員養成所に入り、三等機関士の資格を得る[2]。帝国海軍へ志願するもほどなく太平洋戦争の終戦を迎えたため、以後は八幡製鉄所で曳き舟の機関員として働いていたほか、港湾荷役の仕事も兼任していた[2]。
力士時代
1947年春、小倉市に当時の横綱だった羽黒山率いる大相撲巡業が訪れた際に、後援会の会員の紹介で関係者に引き合わされ、その場で立浪部屋への入門が決まる[2]。同年6月場所に「定野」の四股名で初土俵を踏む。その後「金田山」→「豊登」と四股名を改め、1950年秋場所で十両に昇進するが、1場所のみで幕下へ降格し、以後しばらくは十両と幕下を行ったり来たりする[2]。1953年9月場所で十両優勝を果たし、1954年3月場所で幕内へ昇進して3場所取り組むも、親方との不仲によって廃業[1]した。得意手は右四つ、出し投げ、腕捻り、櫓投げで、力任せの強引な取り口だったという[1]。
日本プロレス時代
力士廃業後の1954年10月、大相撲の先輩であった力道山率いる日本プロレスへ入団。11月に千葉県茂原市の試合で宮島富雄戦においてプロレスラーとしてデビュー。1956年10月、全日本ウェート別選手権に出場して準決勝へ進出を果たし、頭角を現す。
その後、力道山のタッグパートナーとして海外遠征に同行したことで実力を発揮する。1960年6月7日、力道山と組んでダン・ミラー&フランク・バロアを破り、第3代アジアタッグ王者となる[3]。同王座は力道山の死後も、吉村道明やジャイアント馬場とタッグを組んで3回獲得した[3]。
1963年12月の力道山死去を受け、その後継者として豊登が日本プロレスのエースとなって1964年、ジン・キニスキーから勝利。翌1965年にはフレッド・ブラッシーからも勝利し、春のワールドリーグ戦2連覇を果たした。同年には日本プロレス2代目の社長へ就任[4]している。
1964年12月4日、東京都体育館にてザ・デストロイヤーから勝利し、WWA世界ヘビー級王座を奪取した。しかしデストロイヤーは帰国後も王者として防衛戦を続けており、日米で2つのWWA王座が混在してしまう事態になった(旅客機に搭乗することが嫌いである豊登は、その理由で渡米を回避したこともあり、WWAの本拠地ロサンゼルスでの防衛戦を行おうとしなかったため、WWA本部が豊登の王座奪取を無効にしたとされる)[5]。それ以降、アメリカではペドロ・モラレスを経てルーク・グラハムへタイトルが渡り、最終的には1965年9月20日、ロサンゼルスに遠征して来た豊登をグラハムが下して統一王者となったが(1度は豊登が勝利して2本のベルトを巻いたものの、反則絡みのために王座を取り消されている)、豊登の王座戴冠はWWAのタイトル史には記録されていない[6]。生涯のシングル王座戴冠は、このWWA世界ヘビー級王座のみである。
しかし、これまで「サバ折り」や「逆エビ固め」など、力任せの技を主体とした豊登にエースは務まらず、日本プロレスの興行収益は徐々に低下してしまう。その対策として日本プロレスの幹部は、アメリカで修行中だったジャイアント馬場を緊急帰国させて、豊登と馬場の2人トップ体制を開始する。この試みによってテレビの視聴率は、力道山時代を上回る高い数字が記録された。ところが豊登は、社長の立場でありながら団体経営に関しては全くやる気が無く、専務に就任した芳の里へ責務を全て丸投げして平日からギャンブル三昧という日々を過ごしており、ある日会社の資金2000万円(2024年時点で8000万円に相当)を非合法ギャンブルに全て使い果たした[7]。1965年末に、無数のギャンブル好きから来る金銭の横領が発覚したため、吉村道明・遠藤幸吉ら幹部によって指摘や非難を受けてしまう。またジャイアント馬場がインターナショナル・ヘビー級王座(力道山の死後に封印していたが、馬場へシングル王座を獲得させる目的で復活する)の獲得を果たしたことにより、自身としてエースという地位が危うくなって来たのを自覚して社長より退任し、日本プロレスからも身を引くことにする。親友である芳の里は豊登のギャンブル癖を看過出来ず、賭博で使い果たした2000万円を退職金代わりにして、豊登を日本プロレスから追放する運びとなった[8]。
猪木略奪事件
1966年3月、アメリカ遠征から帰国の途についていた当時、日本プロレス所属のアントニオ猪木とホノルルで密会し、その際に豊登は「日本プロレスに帰っても、お前はずっと馬場の2番手だぞ。俺の団体へ来たら社長にしてやるし、団体のエースなんだからな」と口説き落とし、4月23日に猪木を伴って帰国する。この出来事は『太平洋上の略奪』と呼ばれた[9]。同年10月12日に、蔵前国技館で東京プロレス旗揚げ戦が開催される。このヘッドハンティングは、自身を追放した日本プロレスへの復讐でもあった[8]。
しかしながら豊登は、東京プロレスでも会社を私物扱いにしており、ギャンブル目的で金庫から勝手に売上金を持ち出してしまい、相変わらず平日から競輪・競馬場へと出向いていた。またテレビ放送権が付かなかったのを始め営業力が弱体であったことや、これらのトラブルが元で豊登と猪木の信頼関係が失われたことにより、旗揚げ戦からわずか3ヶ月をもって団体は消滅[5]してしまい、猪木は日本プロレスへ復帰した[8]。
現役後期
東京プロレスの崩壊から約半年後となる1967年7月に、豊登の付き人だった田中忠治と2人で国際プロレスへ入団する。1968年2月14日、サンダー杉山をパートナーにファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ&ドン・ケント)に勝利して、TWWA世界タッグ王座を獲得[10]。同年12月にはビル・ロビンソンとIWAワールド・シリーズで決勝戦を争った[11]。1969年5月18日にはパリへ遠征してストロング小林とともに、モンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフから勝利し、IWA世界タッグ王座の初代王者チームとなった[12]。
ただし国際プロレスの方針は「力道山時代に無かった新しいプロレス」を目標として旗揚げされた団体のため、豊登はその高い知名度によって地方の興行主や、プロモーターの受けが良いだけの「旧時代の遺物」に過ぎなかった[8]。1970年2月に国際プロレスから引退したが、その理由はギャンブルによる借金が膨大となってしまい、TBS本社にまで借金取りが押し寄せて来たため、東京大学卒業者なども多かった当時の官僚的な体質のTBSに豊登は相応しくなく、TBSの上層部から直接吉原功社長へ対して、豊登を解雇するように頼んだのが真相である[13]。
力道山が存命していた当時、彼の後ろ盾によって黙認されていたギャンブル癖は、国際プロレス解雇の時点で世間並みに非難され、日本プロレス・東京プロレス・国際プロレスと立て続けにプロレス団体を追放されたため、当時プロレス界への復帰は絶望視される。国際プロレス引退(事実上の解雇)後に松山の建設会社へ就職したが、これは債権者の取り立てから逃げるために過ぎなかった[13]。
それから2年間はプロレス界を離れて、市井で働く新間寿に面倒を見てもらっていた。1972年3月、新日本プロレス旗揚げ戦に登場する。ただ復帰に関して最初は「俺はもう吉原功に引退興行をして貰って正式に引退しているんだから、義理があるんだよ」「俺はカムバックなんか出来ないんだからな」「もう体力的に無理だからね」と固く断っていたが、新間が「私は豊さんが出るということで、(猪木)社長から金を受け取っているんですから」とハッタリを発言したことで、2年ぶりに現役復帰を決めた。復帰に際して自転車で1日80km走る、150kgのベンチプレスを行うなどしていたが、スパーリングではすぐ息が上がったりボディスラムの感覚を忘れていたり、と精彩を欠いていた。旗揚げ戦では全盛期のようなパフォーマンスを見せることは出来なかったが、ファンからは喝采を送られた[14]。その後も継続的に参戦する。
1973年、坂口征二の合流でNET(現:テレビ朝日)の新日本プロレス放映が決定し、経営の見通しが立ったことに伴い勇退[5]。「新春バッファロー・シリーズ」最終戦(2月20日、横浜文化体育館)の対ブルーノ・ベッカー戦が現役最後の試合となった[15]。一説にはNET側がテレビ中継を行う条件の1つとして「豊登、ユセフ・トルコと営業社員1名の追放」を要求していたとされる[16]。その背景には豊登がギャンブルの借金返済のため、闇金融筋などに新日本プロレスの地方興行の興行権を渡していたことがあり、それらの「黒い付き合い」をNET側は嫌っていたのが真相だという[17]。
引退後
その後は1974年10月10日、蔵前国技館で行われた猪木VS大木金太郎戦でレフェリーを担当する。これ以降はプロレス業界との接点を一切絶ち、一説には「やくざの用心棒をしていた」「浮浪者になった」などの噂も飛んだ[17]。この頃は糖尿病の影響もあってかなり痩せ細っており、当時を知る関係者によると「現役時代の面影はほぼ無かった」という[17]。
1989年2月22日、新日本プロレスの『スペシャルファイト・イン国技館』で行なわれたユセフ・トルコ引退セレモニーに来賓として登場し、久々に公の場へ姿を見せた。最晩年は力道山の未亡人である田中敬子と交流があり、田中によると豊登は「面倒を見てくれる僧侶がおり、その寺の離れで暮らしていた」という[17]。
1998年7月1日、心筋梗塞のため死去[18]。67歳没[18]。本人の意向により、葬儀は近親者のみで行われ、訃報も約2か月半公表されなかった[18]。
逸話
豊登伝説
残された伝説や逸話は数多くあった。ここでは代表的なものを挙げる。
- 数度の金銭トラブルを起こすほどの大のギャンブル好きであり、競輪に凝っていた。当時新人だった藤波辰爾に対して競輪選手への転向を本気で勧めたり、自ら自転車を手に入れてトレーニングと称し、乗り回したりしていた[19]。
- リキボクシングクラブの第1号選手で、後に金融業を営んで実業家となった琴音隆裕によると、豊登は現代でいうギャンブル依存症であると推測されるが、そのような治療が当時には無かったと語っている[13]
- 競馬にも一家言持っており、パドックから馬を観た後でないと馬券は買わなかった。毛並みのつや・目・そして馬糞までも調べた。最後は「俺には馬語が解るんだよ」と言っていたという。また、競馬新聞の社長の家に1室を与えられて住んでいた[20]。
- 常識を逸した大食漢であり、好物の握り寿司を一度に250個食べたことがあるといわれる。早食いとしても周囲を驚かせており、山本小鉄によると「一緒にラーメンを食べに行って、こっちが一杯目を食べ終わる前に三杯目を注文していた」「色々なレスラーの中で、胃袋に関しては別格だったね」と述懐している[19]。
- 日本で初めての覆面レスラーとされる「覆面太郎(ストロング小林)」に対抗して、豊登は「ミスターZ」という青覆面のマスクマンになったことがある。
- 十八番は自らの手で替え歌にした「ソーラン節」である。ほとんど猥歌と化していた[19]。
- 失踪癖があった[19]。これは現役引退後も続いており、OB会を組織する動きが出た際に、豊登の消息を知る者は誰1人いなかった(後に判明する)という。
- 両腕を前で交差させ、脇の下から「パコン、パコン」と音を鳴らすパフォーマンスは非常に有名であり、豊登の代名詞。桑田佳祐は1983年、小林克也率いるナンバーワンバンドに「プロレスを10倍楽しく見る方法〜今でも豊登を愛しています」という曲を提供したが、歌詞中にもやはり、「パコン、パコン」と小林克也が絶叫する部分がある。外国人レスラーがこの音を気持ち悪がったため、技として通用するともいわれた。新日本プロレスの旗揚げ戦でも仕上がりが悪い中で、このパフォーマンスで客の喝采を掴み取った[14]。
- 山下財宝伝説を信じていた1人であり、周囲のレスラー仲間に対しても採掘の話を持ちかけたこともある。
- 怪力の持ち主としても知られていて、ある時新間寿と一緒に別府の温泉へ行き、風呂に入りながら世間話をしていたところ「新間にはいつも世話になっているから、一つぐらいワシの本気を見せてやろうか」と、タオルを左右に引っ張ってビシッと切ってしまう。またライトバンが山道の溝へはまってしまった際に、その怪力を駆使して1人で動かしたこともある[14]。またグレート小鹿の回想によれば、リキ・スポーツパレスのボウリング場で、ボウリングの球をピンへ目掛けて(レーンに転がすのではなく)放り投げたところ球が上空に上がり過ぎてしまい、天井を突き破ってしまったことがある[21]。
- 筋肉だけでなく骨も非常に丈夫であり、文字通り筋骨隆々であった。レスラーとしては上背がさほど無く、晩年は一般人のような体格に見えたといわれるが、火葬後の骨上げの際にはその骨の大きさで周囲を驚かせている。
その他
- 上記のような数々の伝説を残しているが、山本小鉄の回想によると普段は温厚な人柄であり、後輩に対しても横暴に振る舞う様なことは無かったため、多くの後輩レスラーが彼を慕っていたという。東京プロレスで豊登に振り回された猪木も「若い頃は可愛がってくれましたし、本当に恨みは何も無いんですよ[22]」「豊登さんの存在が無かったら、絶対にプロレスを辞めていた[23]」と振り返っている。しかしそんな豊登も、レスラー生活に馴染めなかった当時新人である関川哲夫(後のミスター・ポーゴ)から長々と愚痴を聞かされており、それに豊登は遂に堪忍袋の緒が切れてしまい、関川の顔が腫れ上がるまで殴ったことがある。翌朝に山本と会った豊登は「やっちゃったんだよ…」と落ち込んでいたという。
- 数多くのレスラーのリングネームの名付け親で知られた。『アントニオ猪木』も彼の命名として知られる。命名の傾向としては
- などがあげられる(北沢は大分県出身なので、出身地からの連想でもある)。
得意技
- 逆エビ固め
- サバ折り
- パコンパコン
- アルゼンチン・バックブリーカー
- カナディアン・バックブリーカー
- シュミット式バックブリーカー
- エルボースマッシュ(エルボー・バット)
- ぶちかまし
獲得タイトル
力士時代の主な成績
通算成績
- 通算成績:174勝135敗11休 勝率.563
- 幕内成績:21勝19敗5休 勝率.525
- 現役在位:24場所
- 幕内在位:3場所
- 各段優勝
- 十両優勝:1回(1953年9月場所)
場所別成績
| 春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1947年 (昭和22年) |
x | x | 新序 3–2 |
東序ノ口5枚目 3–3 |
||
| 1948年 (昭和23年) |
x | x | 東序二段18枚目 4–2 |
西序二段3枚目 4–2 |
||
| 1949年 (昭和24年) |
東三段目15枚目 9–3 |
x | 西幕下20枚目 9–6 |
西幕下11枚目 9–6 |
||
| 1950年 (昭和25年) |
西幕下6枚目 7–8 |
x | 西幕下6枚目 11–4 |
西十両11枚目 2–13 |
||
| 1951年 (昭和26年) |
東幕下5枚目 8–7 |
x | 西幕下3枚目 10–5 |
東十両11枚目 7–8 |
||
| 1952年 (昭和27年) |
東十両13枚目 7–8 |
x | 東十両14枚目 7–8 |
東十両15枚目 5–10 |
||
| 1953年 (昭和28年) |
東幕下2枚目 10–5 |
西十両15枚目 9–6 |
東十両13枚目 6–3–6 |
東十両13枚目 優勝 12–3 |
||
| 1954年 (昭和29年) |
西十両4枚目 11–4 |
東前頭20枚目 9–6 |
東前頭17枚目 6–4–5[24] |
東前頭15枚目 引退 6–9–0 |
||
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) | ||||||
幕内対戦成績
改名歴
- 定野 道春(さだの みちはる)1947年6月場所 - 1948年10月場所
- 金田山 道春(かなたやま みちはる)1949年1月場所 - 1949年5月場所
- 豊登 道春(とよのぼり みちはる)1949年10月場所 - 1954年9月場所
出演
映画
- プロレスWリーグ 血ぬられた王者(1968年、東映) - ドキュメンタリー映画