貞慶
日本の鎌倉時代前期の僧
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経歴
祖父信西は保元元年(1156年)の保元の乱の功により一時権勢を得たが、平治元年(1160年)の平治の乱では自害させられ、また父藤原貞憲も 土佐に配流された[1]。生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り11歳で出家叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ。
寿永元年(1182年)、維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って建久4年(1193年)、以前から弥勒信仰を媒介として信仰を寄せていた笠置寺に隠遁した。それ以後般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始し弥勒講式を作るなど弥勒信仰をいっそう深めていった。その間の文治2年(1186年)には大原勝林院で法然や重源によって行われた大原問答に出席している。
元久2年(1205年)には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めた。しかし、法然に師事したのが、その時は既に亡くなっていたが、貞慶の叔父(父貞憲の弟)の円照 (遊蓮房)であった。
承元2年(1208年)、海住山寺に移り観音信仰にも関心を寄せた。
建長5年(1253年)に書かれた「三輪上人行状記」に、三輪上人(慶円)は、惣持寺の本尊・快慶作 薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され行ったとあるように慶円三輪上人とは無二の親友であった。
墓
主な著作
法相・律・弥勒信仰に関する著作が数多く残されており、以下が代表的な著作。
- 『唯識論同学鈔』(ゆいしきろんどうがくしょう)
- 『法相心要鈔』(ほっそうしんようしょう)
- 『愚迷発心集』(ぐめいほっしんしゅう)