負の世界遺産
From Wikipedia, the free encyclopedia
世界遺産の関連書では、主に登録理由の一部ないし全部が平和への希求や人種差別の撤廃などの歴史と密接に結びついている物件が挙げられている。物件によってはその多面的な要素から、正の遺産とも負の遺産とも位置付けられる可能性も指摘されている[4]。例えば、「海商都市リヴァプール」は大英帝国の繁栄を伝える物件として登録されたものであり、世界遺産の関連書などでも負の遺産と位置付けられてはいないが、その発展と繁栄が黒人奴隷を商品とする三角貿易で形成されたという側面に注目し、「負の遺産」と位置付ける見解なども存在する[5]。
いわゆる「負の世界遺産」の場合、世界遺産登録基準(6)を含むか、それのみが適用されて登録されているのが一般的である。
- (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
ただし、独立記念館、リラ修道院、ランス・オ・メドーなども基準(6)のみで登録されているが、一般に負の世界遺産とは見なされていない。このように基準(6)が適用されている物件がただちに負の世界遺産といえるわけではないが、基準に付けられた但し書きの存在によって、現在では基準(6)のみを理由として推薦できるのは、負の遺産に分類されうる物件だけとも言われている[6]。
なお、上でも述べたように、世界遺産登録理由で直接強調されていなくとも、その物件の負の側面に注目して「負の世界遺産」と位置づけられることがあり、その場合には基準(6)を含んでいないことがある。この点、下に掲げるリストも参照のこと。
登録の歴史
世界遺産条約に基づき世界遺産が登録されるようになったのは、第2回世界遺産委員会(1978年)からである。その年に登録された最初の世界遺産12件の中に、「負の世界遺産」とされる「ゴレ島」が含まれていた。
翌年には、「アウシュヴィッツ強制収容所」と「ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群」が登録された。なお、前者の登録については、類似物件の登録を今後制限する旨の付帯決議が盛り込まれた[7]。
1980年の第4回世界遺産委員会で基準(6)のみで登録することの是非が議題に上り[8]、基準(6)のみの登録自体が、特に負の遺産とは位置付けられていない「ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ」(1981年)、「リラ修道院」(1981年)、「プエルトリコのラ・フォルタレサとサンフアン国定史跡」(1983年)の3件の後、一時的に途絶えた。
次に基準(6)のみで登録されたのは原爆ドーム(1996年)だが、その登録に際して委員会は紛糾し、中国は日本以外のアジア諸国の被害を過小評価しようとすることに利用されることへの懸念を示し、アメリカ合衆国も日本の「友人」としての立場を主張しつつも、戦争遺跡を世界遺産に含めることには否定的な見解を示した[9]。このときの決議は、あくまでも平和希求の象徴として評価に基づいており、評価基準の適用に当たっては「戦争」との関連は直接的に示されていない[3]。
そして、この件を境に基準(6)は他の基準との併用を原則とする旨の条件付けがなされたが、その条件付けはロベン島の登録(1999年)にあたって早速問題になった。事前審査を行ったICOMOSは基準(6)について顕著な普遍的価値を認めたものの、同時に提案されていた基準(3)については否定的評価を下したからである。ICOMOSは基準(3)をご都合主義的に盛り込むことに難色を示していたが、委員会の審議は、基準(3)も適用することで決着した[10][3]。
その後、基準(6)の但し書きは上記のように表現が若干緩和されたが、ロベン島の登録以降で基準(6)のみによって登録されたのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ初の世界遺産となった「モスタル旧市街の古い橋の地区」とモーリシャス初の世界遺産となった「アープラヴァシ・ガート」のみである(2010年の第34回世界遺産委員会終了時点)。これらは後掲のリストの通り、負の遺産に分類されることがある。