資政院選挙
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| 黄色:立憲派が多数派となった省 赤色:選出議員のいない省 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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資政院選挙(しせいいんせんきょ)は、清末の1909年に実施され、清朝において唯一実施された、資政院議員を選出する間接選挙である。資政院は、光緒新政による憲政改革に基づいて設立された議会の準備機関であり、この選挙は中国史上初の選挙と見なされている[1]。
資政院は当初200名の議員で構成され、そのうち半数は各省の諮議局の議員による互選で選出され、残りの半数は清朝皇帝が各種別に基づいて任命した。なお、当時甘粛新疆省にはまだ諮議局が設置されていなかったため、議席数は196となった。
資政院選挙は間接選挙であった。民選議員の選出方法は、まず各省の諮議局議員が定数の2倍の人数を互選し、その中から督撫(地方の総督・巡撫)が半数を当選者として指名する形式であった。一方、皇帝によって任命される欽選議員は七つの区分に分けられていたが、資格を有する者が多数いたため、欽選枠にも一定の選挙的要素が含まれていた[2]。
| 民選議員 | 欽選議員 | ||
|---|---|---|---|
| 奉天 | 3 | 宗室王公世爵 | 14 |
| 吉林 | 2 | 満漢世爵 | 12 |
| 黒龍江 | 2 | 外藩王公世爵 | 14 |
| 直隷 | 9 | 宗室覚羅 | 6 |
| 江蘇 | 7 | 各部院衙門官 | 32 |
| 安徽 | 5 | 碩学通儒 | 10 |
| 江西 | 6 | 高額納税者 | 10 |
| 浙江 | 7 | ||
| 福建 | 4 | ||
| 湖北 | 5 | ||
| 湖南 | 5 | ||
| 山東 | 6 | ||
| 河南 | 5 | ||
| 山西 | 5 | ||
| 陝西 | 4 | ||
| 甘粛 | 3 | ||
| 四川 | 6 | ||
| 広東 | 5 | ||
| 広西 | 3 | ||
| 雲南 | 4 | ||
| 貴州 | 2 | ||
| 合計 | 98 | 合計 | 98 |