赤星因徹
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肥後国菊池郡に赤星四郎兵衛の十男として生まれる。12歳のときに江戸へ出て因砂因碩に入門し、因誠と改名。15歳頃からは幻庵因碩の教えを受け、18歳で三段に昇り、幻庵の入門時の名前因徹を名乗る。天保4年(1833年)六段。天保5年七段。同年の6月、7月に丈和と先で2局打ち、ともに打ち掛けながら黒優勢であった。また、この時期に幻庵と先で一日に4局打って因徹が全勝したため、幻庵は因徹に丈和との勝負碁を打たせることにしたとのエピソードが「坐隠談叢」にある。(なお、棋譜に残された限りでは、因徹の先による幻庵との戦績は天保3年から死の年まで5勝5敗である[1])
名人就位を目指す幻庵は、天保2年に名人碁所に就位していた丈和の引き摺り降ろし策として、天保6年7月19日に老中松平周防守宅で開かれた碁会にて、お止め碁となっていた丈和に因徹を対戦させる。3回の打ち継ぎを挟んで四日がかり27日まで打ったこの碁は、序盤は黒の因徹が井門の秘手と言われた大斜定石の新手を繰り出して優勢に進めたが、その後「丈和の三妙手」などで挽回し丈和勝ち。この時既に重度の肺結核を患っていた因徹は、投了後吐血したと伝えられており、因徹吐血の局として知られる。またこの局中、幻庵は某寺に依頼し、不動明王に護摩を焚かせていたともいう。因徹はその2ヶ月後に死去。
文政9年(1826年)17歳時に中川順節との順節先相先での12局があり、打ち分けとなっている。関山仙太夫は著書で、因徹は七段なるも実力八段に近き井門の珍物、と評している。