高田地震
越後国高田藩を中心に被害をもたらした地震
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1502年の地震
1614年の地震
1666年の地震
1666年2月1日(寛文5年12月27日)申の下刻(16~17時)に発生し、越後高田を中心に被害をもたらした地震である。寛文高田地震、越後西部地震とも称される。村上で強震、八王子でも有感。震央は北緯37.1度 東経138.2度[注 1]、地震の規模はM6+3⁄4程度と推定されている[4][注 2]。地震発生時、14~15尺(約4.5m)ほど積雪していた。震害で高田城の本丸、二の丸、三の丸に被害が生じ、侍屋敷700余が倒潰した。民家の倒潰も多かった。また、夜になって火災が発生した。
家老の小栗正重と荻田長磐らが倒壊家屋により圧死したほか、越後高田藩家中150人(120人)余が死亡、全体の死者は1,400~1,500人(600人?)とされている[1]。
1751年の地震
1751年5月21日(寛延4年/宝暦元年4月26日)丑の刻(午前2時頃)に関川東岸の高田平野(頸城平野)、現在の新潟県上越市中央部を中心に被害をもたらした地震である。宇佐美龍夫による推定では、マグニチュード7.0から7.4相当とされている。宝暦高田地震、或いは越後・越中地震とも称される。
震央は北緯37.1度 東経138.2度[注 1]付近と推定されている[5]が、別な研究では青田難波山の難波山背斜南部とする説もある[6]。この地震による死者は、資料によって異なり、1100人から2000人程度であったとされる[7]。高田平野周辺には、平野東西両縁に沿って活断層が連続的に存在しているが、高田平野西縁断層系で発生したと考えられている[6]。
この地震による代表的な被害は、名立区(現:新潟県上越市)の海岸段丘が、地すべりにより崩れ落ち、406人が死亡した「名立崩れ」など、多大な被害をもたらしている。これにより高田藩は江戸幕府に金銭面での救済[注 3]を求めている。
1847年の地震
1847年5月13日(弘化4年3月29日)昼九ツ(正午ごろ)、越後国頸城郡を中心に被害をもたらした地震が発生した。震央は北緯37.2度 東経138.3度[注 1]付近、地震の規模はM61⁄2と推定されている。この地震の5日前の3月24日に善光寺地震(M 7.4)が発生しており、この地震の被害と区別できないところが多い。今町(現直江津)では24日の地震より強い揺れで、家300余潰、液状化現象も発生した。川浦陣屋(現上越市三和区)大破。高田家中皆潰17、足軽長屋残らず大破。24日と29日の地震被害を合わせて頸城郡の代官領の136ヵ村4,596戸中、潰293、半潰1,034、大破148(248?)、死者16人。高田城内で全潰447、破損1,671、死者5人[1]。