趙光逢
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趙隠の子として生まれた。乾符5年(878年)、進士に及第し、鳳翔府推官を初任とした。入朝して監察御史となった。広明2年(881年)、父が死去すると、光逢は辞職して喪に服した。中和5年(885年)、僖宗が長安に帰還すると、光逢は太常寺博士に任じられた。礼部員外郎・司勲員外郎・吏部員外郎を歴任し、集賢院学士をつとめ、礼部郎中に転じた。景福元年(892年)、祠部郎中として知制誥となり、ほどなく翰林学士をつとめ、正式に中書舎人に任じられた。戸部侍郎・翰林学士承旨となり、翰林学士のまま兵部侍郎・尚書左丞に転じた。乾寧3年(896年)、昭宗に従って華州に避難し、御史中丞に任じられ、礼部侍郎に転じた[5]。
光化3年(900年)、劉季述が昭宗を廃位して李裕を擁立し、宰相の崔胤が宦官と政権を争うと、光逢は病と称して洛陽に隠居した。天祐元年(904年)、昭宗が洛陽に遷都すると、光逢は吏部侍郎として起用された。尚書左丞となり、太常寺卿に転じた[5]。開平元年(907年)、後梁が建国されると、光逢は開封府に移った[6]。開平3年(909年)、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[7]。尚書左僕射に転じて、租庸使を兼ねた。のちに太子太保として致仕した。後梁の末帝にその才能を愛され[8]、貞明2年(916年)に光逢は司空として召し出され、門下侍郎を兼ねた[9][10]。貞明4年(918年)、司徒として致仕した[11]。後唐の天成2年(927年)、太保として致仕し、斉国公に封じられた[12]。12月15日(928年1月10日)、洛陽で死去した[13]。太傅の位を追贈された[14][15]。