趙普
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元は後周の下級役人に過ぎなかったが、当時義成軍節度使であった北宋の太祖趙匡胤の知遇を得て掌書記(書記官を掌握する職務)に迎えられ、ブレーンとなった。顕徳6年(959年)に世宗が急逝し、その後継者となった恭帝が幼少であったために軍部が動揺すると、顕徳7年(960年)に太宗趙匡義とともに陳橋の変を主導し、趙匡胤を擁立して北宋を建国した。[1]
太祖からは左右の手と評されるほどの信頼と重用を受け、枢密使を経て乾徳2年(964年)には宰相となった。趙普は独断的かつ強硬な政務を推し進めたため、太祖が宰相への権力集中を抑制するために参知政事(薛居正・呂余慶ら)を設置した背景には、趙普の影響があったと後世の解釈として指摘されることがある。その結果、開宝6年(973年)には、翰林学士盧多遜の讒言や、雷有隣の告発による汚職の噂が原因で太祖により罷免され、河陽節度使へと左遷された。[1]
開宝9年(976年)に太祖が急逝し太宗が即位すると、趙普はかつての確執を越えて、杜太后の遺言として太祖から太宗への継承を記したとされる「金匱の盟」の誓書を提示し、太宗の即位の正当性を支持した。これにより太平興国6年(981年)に再び宰相に復帰した。その後、太平興国8年(983年)に秦王趙廷美事件に関与したことで一時的に遠ざけられたものの、端拱元年(988年)には豊富な経験と忠誠心を評価され、三度目の宰相復帰を果たした。太宗は趙普の過去の過ちを許し「人誰か過ちなからん」と述べたと伝えられ、淳化3年(992年)に致仕するまで重鎮として在職した。[1]
下級役人上がりで教養がないと批判されたが、「沈毅果断、天下を以って己が任と為す」といわれた冷静沈着な名宰相で、盛唐から五代十国時代にかけて戦乱の原因となった節度使の無力化や、文人の登用などを進言し、北宋・南宋合わせて300余年にわたる王朝の基礎を築いた立役者と言われる。また、清廉潔白な人物とは言えず、御史中丞雷徳驤に強要・収賄を弾劾された際には、社稷の臣であることを理由に却下されている。[1]
家族
- 妻:魏氏(魏国夫人、齊国夫人)、何氏(陳国夫人)
- 弟:趙貞、趙安易
- 子:趙承宗(左羽林大将軍)、趙承煦(昭宣使)
- 娘:二人いた(出家し、智果大師、智圓大師となる)
- 孫:趙従約
エピソード
- 趙普が趙匡胤にある人物を推挙したところ、「だめだ」と拒否された。その翌日趙普は同じ人物を推挙し、遂に趙匡胤は怒って上奏文を破り捨てた。趙普はそれを拾い、修復してさらに翌日上奏したため、趙匡胤は己の非をさとり、その人物を登用したという(『宋名臣言行録』)。[2]
- 森鷗外は小説『水滸伝』の軍師の呉用の人物像のモデルを趙普だと述べている。これは鷗外独自の説というより、中村正直なども述べていた説で、中国の通俗小説『照世盃』の孔雀道人の序に由来する。序には、「水滸伝の中には宋代の歴史が表現されており、晁蓋は太祖趙匡胤、宋江は太宗趙匡義、そして呉用は趙普を元にして作られた人物だ」とある。鷗外はさらにこの説を補強して、宋代の野史を見ると趙普のことを「趙匡胤が敗走して軍師を探していた時に、村人から『あそこの寺子屋の趙学究さんは計略がうまいですよ』と教えられて軍師にした」と書いているものがあり、呉用(字が学究)のモデルが趙普というのは相当可能性が高いとしている(森鷗外『標新領異録』、鷗外全集収録)。[3]
- 趙普は下級官吏上がりで学問がなく、看板の額に誤字を書くなどの失敗があった。このため、趙匡胤から学問を薦められて初めて読書をするようになったと言われている。仕事が終わって帰宅後、常に家で『論語』を読んだ。死ぬ間際、趙匡義に「私は論語の半分で太祖に天下を取らせました。後の半分であなたの治世を太平に致しました」と述べたという。このことから『三字経』で「趙中令は魯論を読み、彼既に仕うれども学び且つ勤む」と謳われ、かえって孔子の真義の実践者として後世尊敬された(『十八史略』『鶴林玉露』)。[1][4][5]
