趙熙
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後梁の宰相の斉国公趙光逢の甥にあたる。秘書省校書郎を初任とした。後唐の天成年間、起居郎に累進した。たびたび上奏して明宗の意にかない、ほどなく兵部郎中に任じられた。後晋の天福6年(941年)、高祖石敬瑭の命を受けて張昭遠らとともに『唐史』の編纂にあたった。開運2年(945年)、右諫議大夫に任じられた[1]。
開運3年(946年)、契丹が開封府を陥落させると、趙熙は契丹の太宗の命を受けて晋州に使者として派遣され、有力者に貨幣を分配することになった。天福12年(947年)2月、後漢の高祖劉知遠が即位すると、趙熙は貴族たちの出頭を求め、性急な手段で捜索をおこなったので、晋州の人々はこれに苦慮した。晋州の軍が建雄軍節度副使の駱従朗を殺害すると、民衆たちが武装して館舎を襲撃し、趙熙を殺害した[1]。