趙鳳
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若くして儒学で名を知られた。天祐8年(911年)、燕王劉守光が領内の成人男性を軍隊に入れ、その顔に入れ墨をすると、趙鳳は髪を剃って僧となり劉守光の弟の劉守奇に匿われた。乾化2年(912年)、劉守奇に従って後梁に亡命した。乾化3年(913年)、劉守奇が滄州節度使となると、趙鳳はその下で滄州節度判官となった。劉守奇が死去すると、趙鳳は天平軍節度判官となった。晋王李存勗が鄆州を取ると、趙鳳は降伏した。李存勗は趙鳳を得て喜び、かれを扈鑾学士とした[1][2]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位すると、趙鳳は中書舎人・翰林学士に任じられた。荘宗が開封府に入ると、趙鳳は礼部員外郎に転じた。荘宗と劉皇后が張全義の邸に行幸すると、皇后が張全義に父として仕えたいといったので、荘宗はこれを許可した。趙鳳は上書して強く諫めたが、聞き入れられなかった[1][2]。
天成元年(926年)、字の読めない明宗のために端明殿学士が置かれると、趙鳳は馮道とともにその職に任じられた。天成2年(927年)、任圜が宰相であったが、安重誨と争い、宰相を退任して磁州に帰った。朱守殷が汴州で反乱を起こすと、任圜は安重誨に誣告されて自殺を命じられた。趙鳳は任圜のために哀哭して安重誨を非難したが、安重誨は笑って答えなかった。この冬、趙鳳は知礼部貢挙となった[1][3]。
天成3年(928年)春、僧が西国から帰り、拳のような大きさの仏歯を持って帰って明宗に献上した。趙鳳は「かつて仏歯は重りできたえて壊れなかったと聞いたことがあります。試させていただきたい」といった。趙鳳は斧を振るって砕いてしまった。ときに宮中からの贈り物が数千緡を超えていたので、奏聞して中止させた。天成4年(929年)2月、明宗が洛陽に帰ると、趙鳳は知汴州軍州事をつとめた。4月、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に任じられた。長興元年(930年)、天水郡開国伯に封じられた。長興2年(931年)、安重誨が河中節度使として出向するにあたって、趙鳳ひとりこれに反対した。長興3年(932年)7月、趙鳳は安国軍節度使として出向した。応順元年(934年)、閔帝が衛州に逃れると、趙鳳は軍を集めて閔帝のもとに駆けつけようとした。閔帝が殺害されると、取りやめた[4][5]。
清泰元年(同年)、趙鳳は末帝に召還されて、太保に任じられた。足を病んでおり、朝廷に参内することができなかった。病が重くなり、自ら卜占をして卦が出ると、筮竹を投げ捨てて、「わが家は代々50歳を超える者がなく、また身分も低かった。わたしは年すでに50を超え、また将相となったのだから、どうしてこれ以上の長寿を求めようか」とため息をついた。清泰2年(935年)3月、死去した[6][7]。