足木敏郎
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豊川高校から1953年に名古屋ドラゴンズへ入団したが、試合出場は1953年10月8日の対洋松ロビンス戦で試合途中から右翼手として守備についた1試合のみ(なお、足木に非はないものの、この試合の後で足木が未登録で試合に出場していたことが判明し、名古屋球団がセントラル野球連盟から厳重注意処分を受けた[2])で、同年現役引退[1]。
現役引退後は中日球団に残りトレーナーを務めた後にフロント入りして広報、マネージャー、通訳、渉外部長などを務めた。
球団職員と並行して英会話教室に通い、習得した語学力を生かし、1962年から当時創設された渉外担当として新外国人獲得に尽力。「日本に来る意欲と人柄を見ていた」と3年連続首位打者に輝いたアロンゾ・パウエルを始め、ケン・モッカ、ゲーリー・レーシッチら北米を中心にこれまで100人強を発掘した[3]。
球界でも異例の在籍期間61年だったが、2013年12月27日に勇退が決まる。
球団を退職した後はその経験を生かし、「月刊ドラゴンズ」にて連載を担当した。
2022年4月19日、老衰のため死去[4]。87歳没。
詳細情報
関連情報
著書
- 『ドラゴンズ裏方人生57年』(中日新聞社開発局出版開発部、2009年12月、ISBN 978-4806206040)
連載
- 「足木敏郎DRAGONS 61年」(月刊ドラゴンズ、2015年1月号 - )