輔仁堂
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豊後岡藩第4代藩主中川久恒に藩儒として招聘された備前岡山藩の医師・関幸甫が、元禄9年(1696年)に竹田村杣谷(そまだに)の邸内に藩士教育のための学問所として私塾「輔仁堂」を開いたのが始まり。
その後「輔仁堂」は藩立となり、拡張のために伊豆坂へ移転、さらに校舎の老朽化に伴い近戸へ移され、安永5年(1776年)に藩校「由学館(ゆうがくかん)」と改称。明治元年(1868年)には、同じく鷹匠町より近戸へ移されていた武芸稽古所「経武館」と合併し、「修道館」と改称された。
輔仁堂の「輔仁」は、儒教の経典『論語』の「君子以文会友、以友輔仁」(君子は文を以て友と会し、友を以て仁を輔く、「学問を通じて出会った友人なら、互いに仁をもって助け合えるものだ」)に由来し[1]、由学館の「由学」は、同じく経典『礼記』の「君子如欲化民成俗、其必由学乎」(人を育成し、社会を良くしていくには、学問によらなければならない)に依る[2]。
学問所の沿革
輔仁堂
由学館
- 1776年(安永5年) - 第8代藩主・中川久貞により、輔仁堂を藩校「由学館」に改称[4]。学問振興を図り、輔仁堂を拡大改築[5]。夏目荘右衛門、大河原少司、伊藤雄次、室十之助、野尻双馬の5名を「司業」に任命し、学則を設けて、体系的な公的教育が開始された[6]。
- 1776年(安永5年) - 伊藤鏡河が司業、近習物頭となる[7]。
- 1782年(天明2年)12月 - 通学・校地狭小の不便解消のため伊豆坂に移転[6][8]。
- 1783年(天明3年) - 伊豆坂(岡城通り)に移築移転[5]。
- 1788年(天明8年) - 田能村竹田が11歳で入学[9]。
- 1799年(寛政11年) - 田能村竹田が22歳で儒員となる[9]。
- 1813年(文化10年) - 田能村竹田が35歳で職を辞す[9]。
- 1832年(天保3年) - 第11代藩主・中川久教により、校舎老朽化のため、近戸に移築移転[5]。
- 1840年(天保11年) - 由学館・経武館の双方に塾(寮)を併設[6]。この頃、貫構造・切妻瓦葺屋根の由学館の門が建てられる[5]。
経武館(武芸稽古所)
- 1786年(天明6年)12月 - 武芸奨励のため武芸稽古所として「経武館」を鷹匠町に開設[6]。
- 1840年(天保11年) - 第12代藩主中川久昭により、鷹匠町より近戸へ移され由学館と併設[5]。
- 1840年(天保11年) - 由学館・経武館の双方に塾(寮)を併設[6]。
修道館
参考)大分県立竹田高等学校
修道館跡地に校舎が新築されたが 、直系の学校ではない[11]。
由学館詳細
- 教科 - 漢学、習字、算術。明治維新後は和学、漢学、洋学、医学(漢・洋)、習字、算術、習礼[13]。
- 教授 - 伊藤鏡河(徂徠学)、小畑鹿太(おばたしかた)(国学)、角田九華(朱子学)[13]。
- 備考 - 初め輔仁(ほじん)堂と称し関正軒(朱子学)の邸内に設置、1776年(安永5)由学館と改称、1868年(明治1)経武館と合併して修道館と改称。また1787年(天明7)博済館(医学)を設置、同年江戸藩邸内に学問所(漢学、医学、習礼、歌学)、武芸稽古所を置く。[10][13]
由学館の門
1840年(天保11年)頃、貫構造・切妻瓦葺屋根の「由学館の門」が建てられた。現在は、竹田市大字竹田町上本町(西の宮社)の地に修復移転され、1972年(昭和47年)4月に竹田市の有形文化財(建造物)に指定された[5][14]。
所在地の変遷
- 1696年(元禄9年) - 杣谷の関正軒の邸内に開設。(輔仁堂)
- 1782年(天明2年)12月 - 伊豆坂に移転。交通や校地狭小による不便さを除く目的のため。(由学館)
- 1783年(天明3年) - 伊豆坂(岡城通り)に移築移転。(由学館)
- 1832年(天保3年) - 近戸に移築移転。校舎老朽化のため。(由学館)
- 1871年(明治4年) - 近戸で廃藩置県により閉校。(修道館)