農民協同党
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農民協同党(のうみんきょうどうとう)は、かつて存在した日本の政党。1949年(昭和24年)12月9日に、農民新党を母体として国民協同党の一部も加わり結成された保守中道政党。「協同社会主義による国民経済の改革」を掲げ、農山漁村の政治力結集・食糧自給強化・農業生産力の増強を目指した。農業協同組合と、その政治活動団体である全国農村青年連盟・農民連盟などを組織的基盤とした。1952年(昭和27年)に改進党の結成をもって事実上解体した。
前史・農民新党の結成
北海道の農民政治勢力は、日本協同党系と日本農民党系の二大潮流に分かれたまま選挙を重ねてきた。
1948年(昭和23年)11月の農民政治力結集全国大会を契機として、河口陽一・松本六太郎・北二郎ら衆議院議員を中心に、両勢力を統合した新党結党の準備がすすめられた[1]。 しかし準備が整わないうちに芦田内閣が昭電疑獄事件によって総辞職し、12月23日に衆議院が解散された。日本農民党と日本協同党の北海道地方組織はほぼそのまま合同するかたちで、同年12月29日に農民新党を結成した[2]。なお、農民新党は、日本農民党の改称や丸ごと吸収した政党ではなく、この選挙では日本農民党から9名・農民新党から12名がそれぞれ別々に立候補している。 翌1949年(昭和24年)1月23日の第24回衆議院議員総選挙では、農民新党から6名が当選した。
選挙後、他の諸派から議員の参加を得て、院内勢力は10名となった。
1949年5月、農民新党は衆議院において、国民協同党・社会革新党とともに院内会派新政治協議会を結成した。
農民協同党への改称・結成
1949年10月、農民新党全国協議会を開催した。ここでは「国民政党か職域政党か」が論議され、職域政党として国民協同党との合同を拒否する方針が確立された[1]。なお、農民新党を指導し書記長を勤めていた宮口三郎はこの頃から次第に左傾し脱党、その後日本共産党へ入党した[2]。 同年12月8〜9日の第1回大会では、「協同社会主義の指導理念のもとに農山漁民の政治力を結集する」方針を提示し、新政治協議会を離脱して農民協同党と改称、独自の歩みを開始した(届出は12月17日)[3]。
1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙では、北海道地方区から東隆・松浦定義が、全国区から石川清一がそれぞれ当選し、北海道を地盤とする同党の組織的基盤を示した。3名は院内会派の第一クラブに所属した。
分裂、解体
1951年(昭和26年)、サンフランシスコ講和条約の締結と前後して戦前派政治家の公職追放が解除され、政界再編の動きが活発化した。旧立憲民政党系の大麻唯男・松村謙三らは新政クラブを結成して国民民主党との対等合併を目指す一方、国民民主党の三木武夫らは農民協同党の取り込みをはかった。 1952年(昭和27年)2月8日、農民協同党の主流派議員(中村寅太ら6名)が国民民主党・新政クラブとともに改進党を結成した。これにより農民協同党は事実上解体した。
改進党への参加を見送った小平忠、羽田野次郎、東隆の残留派3名は、1952年7月、日本社会党を離党した平野力三率いる社会民主党と合流し、協同党を結成した。しかし協同党は同年の第25回衆議院議員総選挙に28名を擁立したにもかかわらず当選者はわずか2名にとどまり、同年10月13日の特別国会召集をもって解党し、社会党右派に合流した。こうして農民職域政党としての系譜はここに終わりを告げた。