日本協同党
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歴史
戦前の憲政時代の直接の前身政党はないが、結党メンバーは、戦時下に東條内閣の戦争指導に反旗を翻した護国同志会から船田中、赤城宗徳、井川忠雄らが参加している。他の主要メンバーは、協同組合運動の提唱者である賀川豊彦や、千石興太郎、黒沢酉蔵など。賀川が設立に関わった共栄火災海上保険株式会社の社長を運動の同志である井川が務めていたこともあり、同社の本支店に県本部を設置され、当初の実質的な活動の中心は賀川の地元の兵庫県本部(灘消費購買組合、神戸消費購買組合を中心とする)であった。。
党を指導する船田、千石らは、戦時下へ至る新体制運動には積極的に係わったものの、戦時体制下では非主流派となったため、終戦後の新たな体制の担い手となり得ると考えていた。しかし1946年(昭和21年)1月4日、GHQが指定した公職追放に黒沢、船田、千石ら党幹部が軒並み引っ掛かり、党の代表世話人、世話人、委員計30名のうち、追放を免れたのは世話人の井川と委員の北勝太郎の2名のみという惨状であった。党存続の危機に見舞われた党は2月23日に緊急幹部会を開催し、井川を中心として党再建に乗り出すこととした。井川はまず党の立ち位置を日本自由党(保守政党)の左、日本社会党(革新政党)の右の存在とし、協同主義は統一的な協同組合行政を確立する理念であると主張した。2月28日には第一回の党全国代表者会議の席で、常任世話人として井川の他、船田中の実弟である船田享二、山本実彦らを選出した[5][6]。
日本協同党は総選挙を睨み、まず社会党との連携を模索した。社会党としても戦後の結党時、協同組合関係者を取り込む動きもあり、日本協同党と社会党との提携は不自然ではなかった。しかしGHQ内には日本協同党は日本を穏健化し、安定化させるのに寄与すると評価する声とともに、日本協同党のメンバーには中道やや右よりの政党であるとの合意があると見る向きもあった。4月10日の第22回衆議院議員総選挙において、日本協同党は94名の候補者を擁立するが、14名の当選にとどまった(定数466)。思わしくない選挙結果を受けて、日本協同党は社会党との連携以外に諸派、無所属議員のとの連携を図るようになった27日、中央委員長に山本、副委員長に北、書記長に井川という日本協同党の新執行部が選出された。これと前後して無所属議員で結成された院内会派大同倶楽部内に新党結成の動きが起こり、更に日本協同党と大同倶楽部との合同を目指す動きが起こった。山本は改造社社長であり、戦前に2期、民政党の衆議院議員を務めており、経歴からも協同主義のイデオロギーに必ずしもこだわらない人物であった。この動きは北を中心とした日本協同党内の農村派の反対によりいったん立ち消えになったかに見えたが、結局日本協同党や日本農本党などの諸派、大同倶楽部は、5月8日に協同組合主義を党是とする新党、協同民主党の結成に合意するに至った[7][8][9]。
- 後史
ところが協同組合主義の党是に多くの大同倶楽部所属議員からクレームが出され、議員の多くは日本協同党との合同に加わらずに新党結成を目指すこととなり、院内会派日本民主党準備会を結成した。進んでいた話が突然上手くいかなくなった背景には、他の大政党からの工作があったものと推測されている。結局日本協同党は日本農本党、日向民主党などいくつかの小会派によって5月24日に協同民主党を結成した。なお日本民主党準備会は院内会派新政会を経て、9月25日、国民党を結成。翌1947年になって、協同民主党と国民党が合同、国民協同党の結成へと至る[10][11][12]。