辺蔚
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幼くして父を失い、学問に勉励し、郷里で声誉があった。招聘に従って、建雄軍節度従事・保義軍節度従事・華州節度従事を歴任した。後唐の同光3年(925年)、荘宗が前蜀を討ち、後唐の軍が華州に進出すると、辺蔚は華州節度掌書記となって、軍府の事務を領知し、軍糧の供給に才幹を示した。天成元年(926年)、明宗が洛陽に入ると、李沖が関右に派遣されて、宦官の誅殺にあたった。華州にも宦官の縁者がいたので、李沖はかれらを殺しつくそうとしたが、辺蔚が救護にあたって命を救われた者が多かった。毛璋が静難軍節度使となると、辺蔚はその下で静難軍節度判官となった。ときに毛璋は部下に惑わされて、自立しようとした。辺蔚が順逆の理を説いて強く諫めたので、毛璋はその子を人質に出して入貢した。辺蔚は許州軍事判官に転じた[2]。
後晋の天福元年(936年)、辺蔚は涇州軍事判官から召還されて虞部員外郎・塩鉄判官に任じられた。開封少尹・広晋少尹を歴任した。天福7年(942年)、少帝石重貴が即位すると、辺蔚は左散騎常侍となり、知広晋府軍府事をつとめた。工部侍郎に転じ、知開封府軍府事をつとめた。開運2年(945年)、亳州防禦使として出向した。その統治は清廉厳粛で、亳州の民衆はこれに感服した[2]。開運3年(946年)、入朝して戸部侍郎となった[3]。
後漢の天福12年(947年)、辺蔚は御史中丞に任じられた[4]。乾祐元年(948年)、儀仗使をつとめた[5]。乾祐3年(950年)、兵部侍郎に転じた[6]。
後周の広順元年(951年)、太祖郭威が即位すると、辺蔚は再び知開封府軍府事をつとめ、太常寺卿となった。のちに足の病のため官位を辞した。顕徳2年(955年)10月25日、家で死去した。享年は71[2]。