近藤勝敏
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人物・経歴
その後、東京へ出て、築地の立教学校(現・立教大学)で学ぶ[4]。
1877年(明治10年)9月、米国聖公会のチャニング・ウィリアムズとその協力者であるクレメント・T・ブランシェ長老夫妻により、東京湯島に立教女学校(現・立教女学院中学校・高等学校)が開校されるが、この設立にあたって、校主の若山儀一と幹事の近藤勝敏により、設立願書が提出された。願書は1877年(明治10年)6月25日付けで提出され、設置場所は東京府第4大区5小区湯島4丁目8番(現・文京区湯島1丁目7番地あたり)とされた[5]。この場所は、江戸時代の村田阿波守の屋敷跡[5]、さらに神田明神下の阿部伯爵邸内であるとされてきたが[6][3]、最新の研究では九鬼邸(当時は近藤勝敏の住宅)[注釈 1]であることが判明しており[7]、願書にある設置場所は願出人の1人である近藤勝敏の住所になっている[6][3]。設立当初の立教女学校の教師には、ブランシェ夫妻と漢学者の中川和(聖公会信徒、立教学校出身)がおり、また幹事として近藤勝敏のほかに壱岐と称する人物もいたようだ[5]。
1881年(明治14年)6月15日に、中外物価新報(現・日本経済新聞)の編集人である太田原則高に代わって編集人に就任[8][2]。
1882年(明治15年)7月5日に、三井物産会社長の益田孝が中心となり、中外物価新報(現・日本経済新聞)の発行主体として新たに匿名組合商況社を設立すると(中外物価新報局を匿名組合商況社に改組)、同年7月8日に創刊以来の印刷人を務めた条野伝平に代わり、近藤が印刷人に就任した。この時、小山能成が仮編集人に就いた[8][2]。
1883年(明治16年)に新聞紙条例改正に伴い紙面の改変とともに、同年6月15日にそれまで仮編集人だった小山能成が編集人に昇格[9][2]。翌1884年(明治17年)1月15日に、持主の条野伝平と印刷人の近藤が辞任し、同年5月17日に加藤勝太郎が持主兼印刷人に就いた[9][2]。
1885年(明治18年)に入ると、中外物価新報(現・日本経済新聞)は、創刊時の週1回刊から週3回刊までに発展してきていたが、経済新聞としての機能をさらに強化すべく、同年7月1日に、ついに待望であった日刊発行(日曜、祭日の翌日は休刊)となる。この時、社内幹部の陣容も主幹河野呈甫以下、前年の渋沢栄一の推薦で会社の幹部候補として入社し後年主幹となった木村清四郎や近藤勝敏が運営の枢機にあたった。木村に次いで主幹となった野崎広太も当時既に有力な社員として活躍していた。そのほか、持主兼名義人の加藤勝太郎、編集名義人の長田貞吉も幹部として名を連ね、中外物価新報(現・日本経済新聞)の内容充実のために尽力し、その後、中外商業新報と改題発展する素地を固めていった[1]。